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大坂冬の陣 徳川方の上杉景勝隊と豊臣方の大野治長・井上頼次らの駆け引き

季節と時節でつづる戦国おりおり第331回

大坂冬の陣・鴫野今福の戦いを歩く②

 史料によれば、鴫野合戦は前日の慶長19年(1614)11月25日からすでに小競り合いは始まっていたらしく、それが26日になって本格化したという流れのようです。

「敵の砦を排除しろという命令を受け、戦闘となった。両軍負傷・戦死限りなし」
「城から2カ所に攻め寄せて来たので、思い通りに防戦(撃退)した」

 これは上杉家の武士たちの記録ですが、前回紹介したように低湿地の鴫野では、まわりは泥沼のような水田だらけ。秩序だった軍隊行動をとるには大和川の堤防上を移動するしかありません。
 一方、豊臣方の井上頼次は鉄砲隊指揮官で、堤防上に柵を結い回し、その前を切り崩して空堀のようにして2,000の兵で待ち構えていました。
 上杉隊5,000はすばやく頼次の陣に攻め寄せたため、頼次自慢の鉄砲は照準を外して上杉兵の頭上をかすめただけだったと伝わりますが、それでもかなりの損害が出たのではないでしょうか。柵が破られ、頼次があえなく討ち死にしたあと、城内から大野治長ら12,000の兵が出撃しますが、これは頼次戦死の後であることを考えると、井上隊の救援というよりも、近くまで引き付けた上杉隊を捕捉し、あわよくば撃滅しておきたい、という狙いだったかも知れません。

 大野隊は数に任せて上杉隊の先鋒を圧倒しますが、2番手の将・水原親憲が鉄砲の斉射を浴びせたところに安田能元が突撃をかけ、事なきを得ます。長時間城外で戦うことを危ぶんだ大野隊は大坂城に引き揚げ、鴫野合戦は上杉隊の勝利に終わりました。

 

 東隣りの八剱神社は上杉景勝が陣を置いた場所と伝えられており、景勝像があります。

 

 また、鴫野は舟運の便が良かった関係で大坂夏の陣後に再建された徳川大坂城の石材の集積地となり、各大名が切り出して刻印を入れた石がこの神社に残されています。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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