弱体化した南朝を支えたものこそ、三種の神器

 後醍醐が三種の神器を持ち出したことは、切り札にするための「誠に奇特の事」(『神皇正統記』)であった。それはいうまでもなく、三種の神器が皇統を伝えるのに、重要な意味を持ったからである。
 暦応2年(1339)の後醍醐の死後、三種の神器を伝えたことにより、後継者の後村上は無事即位を済ませ、新年号を制定しえた。南朝が継続した拠り所は、三種の神器にあったのである。では、南朝にとって、三種の神器とはどのような意味を持ったのであろうか。
 南朝が三種の神器を重要視する理由を知るには、後醍醐の側近である北畠親房の著『神皇正統記』が重要な意味を持つ。
 親房によると、三種の神器の鏡は「正直」、璽は「慈悲」、剣は「知恵(決断)」をそれぞれ象徴するものであり、政道に携わる天皇が兼ね備えなくてはならない徳目であった。その意味でも、三種の神器は天皇にとって重要だとしている。

 つまり、三種の神器を持たない天皇は、「正統」ではないといえる。後村上は三種の神器を擁していたので、「正統」の天皇になる。弱体化し今にも解体しそうな南朝を精神的に支えるのは、三種の神器を擁した天皇であった。
 後村上即位後、南朝と北朝の抗争は続いたが、再度和睦の案が浮上した。和睦を提案したのは、尊氏の弟・足利直義であった。このとき問題となったのは、北朝・南朝がともに三種の神器の保持を主張していることであった。

(次回に続く)