◆「混浴銭湯離れ」が起こった意外なきっかけ

 明治2年(1869)2月には東京府が「風俗矯正町触」を出した。それには卑猥な春画や見世物、男女混浴を取り締まる旨が記されていた。東京府はその翌年にも混浴の禁止を通達。そして明治5年(1872)11月8日、東京府は軽微な犯罪を取り締まる「違式詿違(いしきかいい)条例(いわゆる軽犯罪法)」を通達。男女混浴、裸体や肌脱ぎで市中を通行すること、立ち小便などが禁止され、違反者には罰金が科せられた。
 だがこの法律が施行された後も、混浴の形態を続ける銭湯は後を絶たなかった。混浴は政府にとっては国辱に値する問題でも、一般国民にとっては日常であった。ところが、大衆の側にも意識の変化が生じ始める。

 

 明治半ばから大正にかけて、西洋絵画を崇拝する画学生たちが、「日本女性の裸体は醜い」という蔑視論を展開。モデル探しに混浴銭湯に行っては蔑視する言葉を述べていたので、若い女性が銭湯を敬遠するようになった。こうしたことも一因となり、次第に混浴銭湯は姿を消していく。風俗史家の下川耿史さんは次のように話す。
「私が子どもだった戦後の頃には、まだ隣村の共同浴場が混浴でした。しかし、オリンピックを控えた東京都が条例で10歳以上の男女混浴を禁止したこともあり、昭和30年代から混浴の風景は激減します。異性に裸を見せる恥ずかしさに、法律を破る恥も上乗せされたのでしょう」。

雑誌『一個人』2月号より構成〉