森博達氏の研究によれば、舒明紀(巻第二十三)は文武天皇の時代以降に編まれたというβ群に属する。それに対して皇極紀(巻第二十四)は持統天皇の時代に中国人の手で書かれたというα群にふくまれる。蝦夷や蘇我氏の人物像がまったく異なるのもそのせいかも知れない。
『日本書紀』は蝦夷・入鹿父子の悪行を以下のように記している。まず、皇極元年(642)正月、入鹿の権勢が大臣たる父蝦夷を凌ぐほどであったとする。

 同年中、蝦夷が葛城の高宮(かつて葛城氏の本拠地の中心部だった)に祖廟を建立したが、古代中国では天子(皇帝)にしか許されない八佾の舞いという群舞を行なわせたという。さらには、国中の民を動員して蝦夷・入鹿の墓を今来に造営させたと伝える。蝦夷の墓を大陵、入鹿の墓を小陵とよばせるなど、先ほどの八佾の舞いと同様に、蘇我氏が天皇家に取って代わろうとしていたことを物語っている。聖徳太子のむすめの上宮大娘姫王(山背大兄の妻でもあった舂米女王か)が、一族の領有民を蘇我氏によって徴発・使役されたので、これに激しく抗議したという話が付け加えられている。