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戦争を知らな過ぎる司令……“強い会津藩”が幻だったと分かった時

「戊辰戦争」と 舞台になった 「城」を辿る

◆善戦した長岡の河井継之助

 それから2カ月の間、会津藩と仙台藩は白河城を奪還しようとした。だが、6月16日、新政府軍の増強部隊が平潟(北茨城市)に上陸したこともあって、ついに果たせない。仙台藩は“強い会津藩”が噂だけだったことに失望した。そして、なにより、白河城を失ったことは会津攻めを容易にした。

 江戸では、7月23日、慶喜が駿府に移住する。これで新政府軍は東北列藩同盟の制圧に全力を傾けられるようになる。
 一方、小さいながら洋式装備と訓練を取り入れた藩兵がよく戦って、新政府軍をキリキリ舞いさせていた越後の長岡藩。奇襲攻撃で長岡城を奪い還すなどしていたが、外国船をチャーターした新政府軍の補給作戦が順調に進み始め、長岡城攻略を目的として新潟港を制圧すると、家老の河井継之助が負傷したこともあって、撤退した。7月29日だった。

 越後から只見の山を越えて会津へ、白河から二本松を経て会津盆地へ、さらには北へ仙台攻略を狙うなど、新政府軍の戦略は次々にうまくいき始めた。

「《白河以北一山百文》と東北を蔑視するけど、それは戊辰戦争からなんだ。明治の廃藩置県のときに東北に来た知事や警察署長のほとんどは薩長土肥の出身者で、過酷な政策を推し進めた。まさに半植民地扱い。その後、土地の出身者も知事になったけれど、盛岡から出た原敬が総理大臣になるまで、この国は薩長に牛耳られた」。

 星さんの舌鋒は鋭い。京都守護職会津藩は、薩長の目の敵だった。

〈雑誌『一個人』2017年12月号より構成〉

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星 亮一

ほし りょういち

1935年仙台市生まれ。東北大学文学部国史学科卒業、日本大学大学院総合情報研究科修了。日本近代史専攻。『敗者の維新史』『会津落城』(中公新書)、『会津戦争全史』(講談社)、『呪われた明治維新』(さくら舎)など多数。


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