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戊辰戦争で多くの悲劇を生んだ、会津藩の判断ミス

「戊辰戦争」と 舞台になった 「城」を辿る

◆藩の判断ミスが多くの命を犠牲に

 だから、23日の早朝から、猪苗代湖と会津盆地を結ぶ要衝である戸ノ口や大野ヶ原で激戦が始まってしまう。すぐ近くの滝沢村に出陣していた藩主・容保は、慌てて城内に帰ることになった。防衛線はあっという間に破られ、敵兵が城下町の外れに侵入したのはその日の夕方だった。その情報が各所の主力部隊に伝わるのも遅かった。

 家々が燃えているのを見た白虎隊士は、飯森山で死を選んだ。槍を振りかざし新政府軍の鉄砲に立ち向かった老武士と孫が死んだ。惨殺された娘子隊もいた。家臣の家族もパニックで死を選んだ。
「鶴ヶ城は、近代の大砲などがない時代に築かれたけど、最後まで天守閣が崩れなかった、スゴイ城です。濠も深くて広いし石垣も高くて強い。だから敵に攻め込まれて城が奪い取られたわけじゃない。もし食糧が十分に備蓄されていたら、半年くらいは落ちなかっただろう。そうしたら、勝海舟あたりが出てきて、“西郷さん、どっかで妥協したほうがいいんじゃないか”って納めてくれたかもしれない」。

 ただ、1000mほど離れたところにある小田山から見下ろせるという決定的な弱点があった、と星さん。そこからガンガン大砲を撃たれて、手も足も出なかった。
「会津藩は朝廷に何度も恭順の手紙を書いている。でも、本当なら、重臣が西郷とか大久保、木戸に直接会って、和平交渉を働きかけなければならなかったんだ。出先の一介の参謀・世良修藏は『藩主・容保の首、城、領地を差し出せ』などという無理難題を押し付けるだけで、交渉してもムダだった」。

 会津藩はさまざまな判断ミスを重ねて白虎隊の少年たちを死なせ、老いた武士たちを無駄死にさせ、女性たちを自害させてしまった。
「残念、無念です」。
 星さんの表情は暗かった。それは、会津人の呻きに聞こえた。

〈雑誌『一個人』2017年12月号より構成〉

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星 亮一

ほし りょういち

1935年仙台市生まれ。東北大学文学部国史学科卒業、日本大学大学院総合情報研究科修了。日本近代史専攻。『敗者の維新史』『会津落城』(中公新書)、『会津戦争全史』(講談社)、『呪われた明治維新』(さくら舎)など多数。


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