○豊臣秀頼の頼みの綱は、黒田官兵衛だったか?

 秀頼の父・豊臣秀吉の死後、家康が影響力を強め始めた。天下分け目の大戦「関ケ原の合戦」で家康が勝利すると、その勢いは増し、豊臣家の蔵入地の4分の3を削減し、家康に従わせようとした。しかし、豊臣方がこれに応じなかったため、危険因子である豊臣家を滅ぼすという決断に至ったという。つまり、徳川家とうまく折り合いをつけていれば、豊臣家の滅亡は免れたのかもしれない。

 今回の相性鑑定結果によると、秀頼と相性のいい武将はほとんどいないが、唯一、黒田官兵衛との相性は90%。官兵衛は、秀頼の父親である、豊臣秀吉のもとで軍師として活躍し、幾多の戦いを勝利に導いてきた。豊臣恩顧の大名でありながら、なぜ豊臣家を離れるに至ったか。様々な理由があるだろうが、最大の理由は折合いの悪かった石田三成だろうか。(こうなると、石田三成の生年月日がわからないのが、悔しいところであるが…)結局、官兵衛は、関ケ原の合戦で徳川家康につき、息子・長政を含め目覚ましい活躍を見せた。その後も、黒田家は家康のもとで何かと引き立てを受け、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で、長政は徳川秀忠に属して盟友の加藤嘉明とともに陣を張り、豊臣方と戦っている。

 1604年、江戸幕府設立の翌年に亡くなった官兵衛は、幼き頃の秀頼公しか知らないだろうが、もし石田三成とうまくいっていたら、もし成長した秀頼に出会い話を交わすことがあれば…歴史が変わっていたかもしれないと思う。

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