○武田信玄と井伊直政の相性は100%!~井伊の赤備えへの布石~

 今回の鑑定の結果、信玄と直政の相性が100%であることが明らかになったが、信玄が亡くなった1573年に、直政は12歳。直政(当時:虎松)は寺に入っており、まだ家康にも仕えていなかった。恐らく両者が顔を合わせることはなかっただろう。

 しかし、武田家と井伊家は何かと因縁が深い。井伊家は今川家の直轄にあったが、武田家と今川家との関係が悪化した1572年、信玄は駿河侵攻を行い、井伊家(当時は井伊谷三人衆が治めていた)は武田の家臣である山県昌景の領地となった。これにより、井伊家の菩提寺の龍潭寺も炎上したという。

 一方、赤い鎧で揃える、「赤備え」を初めて行ったのは、武田家の家臣で「甲斐の猛虎」と呼ばれた、飯富虎昌(おぶとらまさ)。当時、出世ルートに乗れるのは、長男のみであったが、飯富は、戦場で活躍する外に出世に期待できなかった次男坊以降を集め、全員に赤い鎧を着せた。彼らは出世したい一心で切込み部隊として大活躍した。飯富の死後、この「赤備え」集団を引き継いだのが、弟の山県昌景。兄弟揃って強かったそうで、武田家の主力として戦い、「赤備え=最強軍団」のイメージを決定づけた。

 武田家滅亡後、「赤備え」は消失したかに思われたが、そこに目をつけたのが、家康。赤備えを率いた武将は亡くなっていたが、その元で戦った勇敢な兵たちは残っていた。直政が出世を続ける一方で、没落した井伊には大勢の兵もいなかったため、この山県の「赤備え」をそっくりそのまま直政に預けたという。直政もまた、「鬼」と言われるほど厳しい武将で、赤備え軍団を率いて戦った、小牧長久手の戦いでも大活躍。世間から「井伊の赤鬼」と恐れられる存在となった。彦根藩に移った後も、代々この「赤備え」は井伊家に残っていった。ひこにゃんの兜が赤いのもそのためだ。
 一見、結びつかなそうに見える、信玄と直政であるが、両者の因縁の深さは、相性100%なのかもしれない。

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