【美食バカ一代】総理大臣になれなかった祖父と「絹のハンカチ」
世界のミシュラン三ツ星レストランをほぼほぼ食べ尽くした男の過剰なグルメ紀行④
僕の祖父「藤山愛一郎」という男
僕の名前は、藤山純二郎。まあ、そんな話から、藤山の生い立ちを書き出してみる。
僕の祖父の名前は、なんと、愛一郎と言った。女性ならともかく、男で「愛」がつく名前は珍しい。祖父のさらにその上の父親が、祖父が生まれた時に「一回で書けて、それを見た方が決して忘れない名前」を考え、初めて生まれた男の子に「愛一郎」とつけたのだそうだ。
ところで、藤山愛一郎(1897〜1985)という名前をどこかで聞いたことがあるという方も、ひょっとしたらまだ、いるかもしれない。実は、8回当選した元衆議院議員で、いまの安倍晋三首相の祖父、岸信介(1896〜1987)内閣の時の外務大臣を務めたのが、僕の祖父藤山愛一郎だ。ここでわかってくれた方が、ひとりでもいてくれたらうれしい。
もっとも、僕が物心ついた頃には、白髪に眼鏡、優しいまなざしの、いかにも品のいい好々爺で、僕には政治家だった祖父のイメージはない。
ただ、誰から聞いたのか覚えていないが、岸首相にかなりうまく使われて、岸氏のあと、3回も自民党の総裁選に出馬し、とうとう総理大臣になれず、そのために私財をほとんど失ったそうだ。
なにしろ、政治家になる前までの藤山愛一郎は、「藤山コンツェルン」と呼ばれるほどの財閥の後継者で、本人も砂糖会社の社長やら、日本商工会議所の会頭、日本航空の初代会長やら、実業家として日本の経済界の中心人物だったようだ。
その頃から、祖父は財界人を代表して、政治家・岸信介氏を応援していたらしい。藤山愛一郎が外務大臣になったのも、聞くところによれば、民間人として登用され、政治家としてではなく、経済人として岸氏に協力するためだったそうだ。
祖父が国会議員になったのは、最初の外務大臣を務めたあとのことで、神奈川1区から立候補し、正式に衆議院議員になった。当時の岸さんにとっては、祖父は仲間と言うより、都合のいい「金づる」だったかもしれないとさえ思う。だが、それも祖父が納得してやったことだから、僕が不満を言ったところでしかたがない。
まあ、僕が言うのも変だが、祖父が首相になれなかったのは仕方がないとしても、自分の派閥(藤山派)の運営や他の議員の選挙のために、祖父は大金を使いすぎた。祖父は、企業からの政治献金をまったく使わず、自分の派閥の維持および、3回の自民党総裁選を私費ですべて賄い、マスコミからは「絹のハンカチ」と言われたそうだ。
もともと財閥だったから、他の企業からの訳あり献金が許せなかったのだろう。でも、それで、総理大臣でもなれば、まだ報われたのだが、結局、願い叶わず、それどころか、そのおかげで、「藤山コンツェルン」は解体の憂き目にあい、やがて、藤山家は没落の一途をたどってしまった。

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