■雪舟を受け継ぐことが大画家への道

 雪舟没後、周防国は大内氏から毛利氏に引き継がれますが、その際に雪舟邸「雲谷庵」も継承しています。毛利氏は元狩野派の絵師である原直治を、雲谷等顔として雪舟流を継がせました。等顔は、長谷川等伯、狩野永徳、海北友松に並び、桃山の4大巨匠となります。江戸時代の藩の御用絵師としては江戸狩野派が隆盛を誇りましたが、雲谷派も黒田家や熊本藩のお抱えになるなど、西国を中心に活躍しました。 

 また、雪舟の知名度をさらに押し上げたものとして、狩野派の存在が大きいですね。特に狩野探幽は、代々続く狩野派の流儀を一変させるにあたり、雪舟の絵に多くを学びました。岩の描き方などにその片鱗が見えます。また、長谷川等伯も晩年に「雪舟五代」と名乗り、雪舟の後継者をアピールしています。京都で絵描きとして生きていくには、自分は雪舟に連なる者であると宣言する必要があった。それほどに、雪舟はビッグネームだったのです。

〈雪舟プロフィール〉
室町時代に活躍した水墨画家・禅僧で、法諱 等楊。応永27(1420)年生まれ、永正3年(1506)年没か。備中国(現在の岡山県)に生まれ、京都の相国寺にて修行の際に、周文に画の手ほどきを受ける。応仁元(1467)年に明(中国)に渡り、李 在らから水墨画を学ぶ。帰国後は山口県の雲谷庵に住み、日本独自の水墨画風を確立。のちの日本画壇へ与えた影響は大きい。