450年前に信長・秀吉・家康・光秀が揃い踏みした「難攻不落」の城
戦国ファンに訪れてほしい、絶景が広がる若狭の山城へ
最近じわじわと人気が出ている山城。城=天守のイメージがあるが、戦国時代は天守や石垣のない山城が多かったという。若狭には豊臣秀吉(木下藤吉郎)が殿を務めた織田信長の撤退戦地・金ヶ崎城と、10年におよぶ朝倉勢の侵攻を凌ぎ難攻不落で知られた佐柿国吉城がある。山頂の絶景を目指して、2つの城址を巡った。
■信長の撤退戦「金ヶ崎の戦い」の舞台となった金ヶ崎城
金ヶ崎城は三方を海、残りを山に囲まれた要害といえる山城。越前の朝倉義景の討伐を目指していた織田信長が、近江の浅井長政の裏切りを知り、朝倉と浅井に挟まれてピンチに陥った地として知られる。信長は踵を返し一目散に京へ逃げ、その撤退戦「金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口)」で殿(しんがり)をつとめたのが、秀吉や明智光秀だったといわれている。
かつて海はもっと城近くまであり、現在城址の中腹にある金崎宮の参道手前のJR敦賀港線(2019年に廃線)のところまで海だったそうだ。山頂へはまず参拝を済ませ、本殿すぐ脇にある花換の小径から目指す。

整備された坂道を登り5分ほどで左手に敦賀湾が見えてくる。ここまで来たらもうひと息、2~3分で戦国武将たちが月見をしたと伝わる月見御殿に到着する。晴れていれば越前海岸まで望め、敵の動きが見えたのでは…と思わせてくれる眺めの良さだ。

ちなみに、月見御殿手前の本丸跡にある「金碕古戦場」の碑は、南北朝時代の金ヶ崎の戦いのもの。このとき命を落とされた尊良親王と京へ幽閉された後に亡くなった恒良親王を御祭神とする金崎宮は、南北朝時代よりずっと後の1890年に創建されている。
帰りは花換の小径とは別ルートで、3つの城戸跡や兵糧庫があったとされる焼米出土跡を見ながら下ろう。なかでも二の城戸はきれいに残っているので必見。

行きの小径とは景色が異なり、山を感じながら10分ほどで社務所前に戻って来られる。往復で30分とかからない、軽快に登れる城だ。
〇金崎宮・金ヶ崎城址
福井県敦賀市金ケ崎町1−4
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