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関ヶ原合戦こぼれ話③

季節と時節でつづる戦国おりおり第443回

 10月はセキガハラの季節。そう、今から420年前の慶長5年9月15日(現在の暦で1600年10月21日)、美濃・関ヶ原で徳川家康の東軍と石田三成の西軍が激突したのです。ということで、その前後にまつわる話を何回かに分けてしていこうと思います。

 慶長5年9月6日(現在の暦で1600年10月12日)、徳川秀忠軍が信州上田城を攻撃。

 5日前の9月1日(旧暦)に信濃国軽井沢に達した徳川秀忠軍は2日に小諸城に入り、4日に上田城へ向けて出発します。

 2日も空白が明いたのは、上田城を攻撃するか降伏を勧めるかで揉めたからとも言いますが、実際の所は軍資金が底をついたために金の工面で日数を必要とした、と『岩淵夜話』にあります。

 徳川家は元々外線作戦での兵站のノウハウなど持っておらず、会津上杉攻めから急遽反転して信濃を攻める事となった秀忠軍は補給線の確保などまったく出来ていなかったのでしょう。

 そんな浮き草のような状態で上田に進出し三方向から上田城に迫った秀忠軍に対し、昌幸・信繁(幸村)父子は挑発行動をとり、怒った秀忠軍の一部が突撃して城に迫ったところで信繁隊が城内から討って出、同時に城外の伏兵も突撃しました。

 このため混乱した秀忠軍の先鋒は神川を渡って退却しようとしましたが、昌幸らはあらかじめ堰き止めていた神川の水を一気に落としたため、「我が軍大ひに敗れ、死傷算なし」(『烈祖成蹟』)と、秀忠軍は惨憺たるありさまとなり、大損害を受けた、ということになっています。

 ところが、質の良い史料で確認できるのは願行寺口の外で小競り合いがあり、真田方優勢で終始したという程度。その後一旦兵をまとめて小諸城にひきあげた秀忠は、9日に「真田征伐のため出陣したので、それが済み次第上洛する」との書状を発しています。この戦いがもし巷説の通り徳川軍が無数の死者を出すような大敗北だったのならば、まだ上田城攻略をあきらめていないこんな文面になるでしょうか。

 しかも同じ日、秀忠は家康が江戸を出陣したという知らせを受け、西上の日程が大幅に前倒しになったことを知ると大慌てで翌日美濃へ向け移動を開始します。

 これも、もし麾下の軍勢が大損害を受けていたのであれば、軍事行動には軍勢の再編などをしなければならず、とても即時の対応は不可能と思われます。第二次上田合戦と呼ばれるこの戦いは、再検討が必要でしょう。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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