劇薬となった「敗戦」

 下級生の頃から試合に出る選手が多く、新チームが発足してからもなかなか結束が固まらない。要するに、主力とベンチ外メンバーたちとの間に距離があったわけだ。

 斎藤監督や横山博英部長らコーチ陣もそれを見抜いていた。ミーティングを重ね、主将を固定せず、選手たちに自覚を促した。春の合宿では主力をメンバーから外すなど、チーム育成に労力を費やしてきた。それでも、春の県大会時点で斎藤監督が「まだ苦労が足りない」と再三口にしていたように、チームはまだ、成熟には至っていなかった。

 選手にとって、一番の劇薬となったのは敗戦だった。

 春の東北大会初戦で仙台育英に敗北。選手たちはミーティングでそれぞれの想いをぶつけ、そして「他喜力」にたどり着いた。

 当時の主将であり、スローガンの提案者でもある大平悠斗が言葉の意味を説く。

「監督や部長、コーチ、選手たちはもちろんですけど、聖光学院を支え、応援してくれているみなさんに喜んでもらうために、自分たちは戦わないといけないという意味を込めて。僕自身、試合に出る、出ないではなく、ベンチ入りメンバーである以上は、常に声を出したり、周りをしっかり見ながら引っ張っていったり、とにかく泥くさく。自分にとっての唯一無二の力を出し切りたいです」

 大平は背番号「5」を担うレギュラーである。主将としても、本人が言うようにグラウンドやベンチで人一倍声を出す。まさに、聖光学院の精神的支柱である。

 その大平が、東北大会後に主将を外された。斎藤監督からは「プレーヤーとしてみんなをカバーしてくれ」と配慮の言葉をかけられたが、その原因は、実は大平自身も個人主義に走っていたからだった。

「調子が上がらずに悩んでいました。本当なら、そこで人として試されていると思わなくてはいけないのに、だんだん気持ちが下がっていって……自分のことしか考えられなかった。監督に勇気ある決断をさせてしまった自分が本当に不甲斐なかったし、人としての器が小さかったというか、情けなかった」

 苦行を知る者、目的を共有する者たちの声を、大平は心に刻んだ。

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