西浦批判の繰り返しこそ「全体主義への大衆煽動」【中野剛志×佐藤健志×適菜収:第3回】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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西浦批判の繰り返しこそ「全体主義への大衆煽動」【中野剛志×佐藤健志×適菜収:第3回】

「専門家会議」の功績を貶めた学者・言論人

■化けの皮が剥がれた言論人の「ヤンキー体質」

適菜:今回、橋下徹や三浦瑠麗、小川榮太郎とか、あの類の連中がそろって同じようなことを言い出した。ある意味、平常運転です。

中野:この新型コロナの件では、藤井氏が編集長をつとめる「表現者クライテリオン」から、編集長を筆頭に、そっち側に加わった論者が出てきてしまった。

適菜:『Hanada』とか『正論』とかとは一線を画していたはずなのに。これはどう解釈すればいいですかね。編集長に対する忖度ですかね。文芸評論家の浜崎洋介氏までおかしなことを言い出した。

中野:文学者だったら、感染症の専門家が感染者数や死亡者数といった数字で物事を判断したとしても、問題は、数ではない、一人の苦しみを想うべきだとか論じそうなものですが。

適菜:彼は福田恆存の「一匹と九十九匹と」の話をよくします。福田が言っていることは、九十九匹を扱うのが政治であったら、そこから外れてしまう一匹がいる。その一匹を救うのが文学であると。ところが、今回、彼は真逆のこと言い出したわけです。(https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20200506/)「よくよく考えてももらいたい、これまでも私たちは、肺炎による死者を毎年12万人以上出し続け(一日300人以上の計算)、インフルエンザでさえ年平均1万人の犠牲者(一日30人)を出し続けきているのです(補足すると、アメリカの2017年~18年におけるインフルエンザによる死亡者数は6万人です)。それに比べて、今年の2月から5月にかけての「新型コロナ」による死亡者数は一体どれほどにものなのでしょうか(5月5日時点で521人)」。なお、三か所くらい誤字脱字がありますが、これは引用先によるものです。
 こうしたインフルエンザなどとの比較がなんの意味もないことは、この鼎談の第1回でも示したとおりですね。浜崎氏は、この文章の後に、しれっと「もちろん、『数量』によって個人の悲劇を図ることはできません」と書いていますが、この文章はまさに「数量」で「個人の悲劇」を語ったものでしょう。

佐藤:まあまあ、福田さんはこうも言っていますよ。「人間の心の動きは微妙なもので、偽善を追及する正義感が偽善になることが往々にしてあります」(『せりふと動き』玉川大学出版部、1979年)。

中野:すでに述べたように、緊急事態宣言の主たる目的は、医療崩壊の阻止にあった。日本医師会も、医療崩壊について警鐘を鳴らした。ところが、恐るべきことに、浜崎氏は、「私たちは、医師会や医療のために存在しているんじゃない」「医療崩壊阻止」の美名の下に、「医療」以外の全ての暮らしと人々の生活が犠牲にされてしまいかねないみたいなことまで書いたわけですよ(https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20200506/)。じゃあ、医療が崩壊したら、「医療」以外の全ての暮らしと人々の生活は犠牲にならないのか。それに、医療崩壊した時に、医療従事者がどれだけ苦しむのか、この文学者は想像しないのか。

適菜:無茶苦茶です。それであの雑誌は「生命至上主義」がどうたらこうたらと。

中野:医療関係者は命がけだし、実際、新型コロナに感染して亡くなった医師もいる。それから医療崩壊したら、医療従事者は「命の選別」を強いられる状況に陥る。医療関係者は他人の生死を実際に自分で決めなきゃいけないわけですよ。その高齢者をかけがえのない肉親と思う家族を前にして……。高齢者を見捨てても心が痛まないのは勝手だけれども、その具体的な判断や執行を医療関係者に押しつけるなよって話。

適菜:そうですね。それこそ想像力の欠如です。

中野:「新型コロナではたいして死なないのに、国民が新型コロナを過剰に恐れている、だからポピュリズムだ、だから大衆だ」とエリートぶる連中がいる。そこまで言うなら、私は大衆の肩を持ちたくなる。みんな自分が新型コロナにかかることだけでなく、大切にしている人たちに接触することで相手を感染させることを恐れていたわけですよ。自分の命だけが大事だから自粛していたわけじゃない。他人の命のことを考えて自粛した、つまり自分を犠牲にしたんだ。それを「空気の支配だ」とか「自分の命だけが大切なんだろ」などと批判するとは……。

適菜:アメリカのトランプはずっとマスクをしなかった。あれと同じ。ヤンキー体質。「お前らびびってじゃねえぞ」って。

中野:あの手の生命至上主義批判は、西部邁の受け売りです。ついでに、第1回の話題を蒸し返すようですが、藤井氏が、「『自粛派』はコロナに壊される『社交』を持たない人々だ」などと「社交論」を持ち出したのも、西部邁の受け売り。
 しかし、新型コロナの怖さは、社交によって自分が感染するだけではなく、社交相手を感染させてしまうことにある。
 社交を重視し、社交相手を大事に思う人ほど、その社交による感染で、大事な社交相手を苦しめたり、死亡させたりするリスクを恐れるでしょう。相手に害を及ぼすようでは、社交は成り立ちませんから。社交を重視するからこそ、新型コロナを恐れて、自粛するのです。
 もっと言えば、社交相手のためを思っての行為が自粛なら、自粛も立派な社交ですよ! 
 それなのに、藤井氏は「『自粛派』は社交を持たない人々」などとレッテルを貼った挙句に、「僕は、自粛で山ほど嫌な思いをしています。いつも行っている釣りに行けません。酒場にも行けません」などと・・・。結局、自分のことしか考えていないじゃないか。

適菜:生命至上主義批判ということで言うと、三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で撒いた「檄」に「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか」とある。それこそこれは「魂」の問題です。私だって顔見知りの人間を批判したくはない。面倒だし、リスクもある。でもこれは「魂」の問題だから放置できない。

佐藤:生命尊重ばかりで、魂が死ぬのはたしかにまずい。だが、なぜまずいのか? 魂の死んだ者は、自分の都合しか尊重しなくなるからです。裏を返せば、生命尊重を批判したからといって、魂が死んでいない証拠にはならない。自分の都合ばかり尊重したあげく、他人の生命はどうでもいいと開き直ったのかも知れない。
 ヒトラーが1942年に鋭い洞察を披露しています。いわく、「人間は単純であればあるほど、あらゆる個人的自由の制約を不当な強制と感じる」。だいたいこれで説明がつくんじゃないですかね。

■「感染が収束しなくても、経済は回る」という幻想

中野:これは、経済を重視する論者に多いのですが、専門家会議の人たちや西浦先生に対して、「感染症対策だけうまくやれば政治や経済や人生のことはどうでもいいと考えている」と勝手に決めつけて批判している節がある。

佐藤:感染が収束しないままでも経済が回ると、本当に思っているんですかね。政府が行動制限をかけさえしなければ、感染が拡大しようと、みんな平気で外出するはずだと。だいたい、ここまで経済に影響が出たら最後、政府が思い切った財政出動をしないことにはどうにもならない。「今の政府がそんなことをするはずがない」という反応も見られますが、これは反論にも何にもなっていません。「だから行動制限を緩めれば、財政出動なしでもどうにかなるはずだ」という話にはならないからです。
 その意味で、行動制限緩和の主張を「論」と呼ぶのは過大評価。あれは「自分の世界観が崩れ落ちそうで怖い、どうにかしてくれ!」という感情のほとばしり、ないし魂の叫びです。

中野:経済が苦しくなってくると、当然ですが、フラストレーションがたまってくる。
 再度の緊急事態宣言はもう無理、「8割おじさんの再登場は難しい」と西浦先生もさじを投げちゃうような雰囲気になってるわけです(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61681100X10C20A7AC8Z00/)。そうすると、日本国民がみんな現実逃避と魂の叫びを始めるわけですよ。フラストレーションがたまると、現実を見て我慢するのではなくて、「こうすればいいじゃないか」「こうすれば楽にできるのに」という人の意見を聞きたくなる雰囲気になっていく。

適菜:それにあわせてデマゴーグが出て来る。

中野:例えば、前回論じたように、藤井氏は、高齢者等の対策「さえ」やればいいと主張した。また、高齢者に重症者や死者が集中していることを示すグラフを「頭を真っ白にして見てください」と呼びかけた。さらに、コロナ対策の経済的損失として自殺者数を誇張した試算を出した。そして、これらを、YoutubeやTwitterなどのSNSで、積極的に説いて回った。
 さて、こうした一連の言説が、コロナ恐慌でフラストレーションがたまった人々の耳に入ると、どういうことになるか。
「どうせ先の短い高齢者等の命を守るためだけに、どうして若者が経済的に苦しい思いをしなきゃいけないんだ!」「高齢者等のせいで、社会全体が苦しいのは不合理だ」という風潮が煽られるでしょう。
 つまり、「高齢者等対策『さえ』していれば大丈夫」は、「高齢者等『さえ』いなければ大丈夫」への道だということです。高齢者等の弱者を敵視し、それを切り捨てるのが社会全体のため。こういう風潮になったら、まさに全体主義の到来です。こうなるのが、非常に怖い。

佐藤:あとは国民のレベルの問題です。

適菜:戦争のときも、日本軍が勝っているとか、神風は吹くとか言いたがるやつがいた。それと同じで、楽観論ならいかがわしいものでも飛びついてしまう。

佐藤:当然でしょう。不安に負ける者はいつの世にもいる。あとはそれが多数派になるかどうか。
 危機的事態に際して、国民のレベルが言論の力で変わりうるかのように構えるのは錯覚にすぎません。国民に良識がなければ、言論人が問題を指摘したところでどうにもならないんですよ。相当の被害を出して、ハードランディングするだけの話です。
 感染被害であれ経済被害であれ、助かりたいと必死になっている人を切り捨ててはいけない。そんなことをしたら社会的連帯が崩れます。ただし不安に負けたあげく、わざわざ自滅的な行動を取りたがるとあっては致し方ない。できることと言えば、ソーシャル・ディスタンスで安全な距離を取り、巻き込まれないようにするくらいでしょうね。

中野:集団自殺へと走るレミングの群れに警告を発してきたのが保守思想だというのに、今では、保守を名乗る連中がレミングの先頭を走っちゃっている。しかももっと痛いのは、レミングの先頭を走ってるつもりがない。適菜さんが書いていたけど、結局、保守は日本に根付かなかったんです。

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[caption id="attachment_1058508" align="alignnone" width="525"] ◆成功体験のある人間ほど失敗するのはなぜか
◆ 新型コロナが炙り出した「狂った学者と言論人」とは
高を括らず未知の事態に対して冷静な観察眼をもって対応する知性の在り処を問う。「本質を見抜く目」「真に学ぶ」とは何かを気鋭の評論家と作家が深く語り合った書。
はじめに デマゴーグに対する免疫力 中野剛志
第一章 人間は未知の事態にいかに対峙すべきか
第二章 成功体験のある人間ほど失敗するのはなぜか
第三章 新型コロナで正体がばれた似非知識人
第四章 思想と哲学の背後に流れる水脈
第五章 コロナ禍は「歴史を学ぶ」チャンスである
第六章 人間の陥りやすい罠
第七章 「保守」はいつから堕落したのか
第八章 人間はなぜ自発的に縛られようとするのか
第九章 世界の本質は「ものまね」である
おわりに なにかを予知するということ 適菜 収[/caption]

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