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3度移転した屯所の変遷

新選組、その知られざる組織の実態 第2回

横暴の限りを尽くした西本願寺時代

移転先は幻の不動堂屯所

 新選組は池田屋事件の後、大規模な隊士募集を行った。結果、隊士数が急増したために、新しい屯所探しが急務となった。そこで西本願寺を内部から監視するという意味もあり、境内の北集会所を屯所として借り受けることにした。

 西本願寺は勤王派だった。元治元年(1864)の禁門の変の時には、敗走する長州兵を僧の格好をさせて逃がした。このことから、幕府に目をつけられていたのである。

 慶応元年(1865)3月、屯所が壬生から西本願寺に移転された。北集会所は300畳もある巨大な建物だったため、大工を雇って小部屋をたくさん作らせ、また太鼓番屋(太鼓楼)も使用した。

 この時、新選組は八木邸母屋の東側に建てていた道場「文武館」を解体して運んでいき、牢屋や首切り場もつくった。そして境内で剣術や鉄砲の訓練を行ったため、寺は非常に迷惑したという。

 同年の閏5月末頃、幕府典医の松本良順がこの屯所を訪れたところ、隊士の総数170〜180名のうち3分の1が病人で、裸体で寝ていたという。そこで良順は浴場の設置を指導し、門人を派遣して治療にあたらせた。また隊士の栄養改善や体力増強のために、豚や鶏を飼育し食べることを勧めた。ところが、屠殺時の悲鳴や調理時の臭いに、かえって寺は頭を悩ませたという。

 慶応3年(1867)6月15日、新選組は屯所を西本願寺から不動堂村に移した(移転時期は秋という説もある)。2度目の屯所移転で、この不動堂村が京都最後の屯所となった。

 不動堂村屯所は、西本願寺が新選組の立ち退きを条件に新築費用を出したもので、大名屋敷のような立派な建物だった。1万平方メートルという広大な敷地に、表門、高塀、玄関門、長屋、使者の間、隊士たちの部屋、近藤や土方らの居間、客間、厩(馬屋)、物見櫓、中間や小者の部屋などがあり、美麗を尽くし使い勝手が良いように作られたという。また寺のように広い台所や、1度に30人が入れる風呂も作られた。

 子母澤寛の『新選組物語』にも、
「屯所は真ん中が広間で、左右に広い廊下が通り、右側にいくつも並んでいるのが平同志(平隊士)の部屋で、右側に並んでいるのが副長助勤(組長)の部屋でした。今でいうところの大きな高等下宿か寄宿舎のようなものでした」
 とある。

 そして移転後まもなく、新選組隊士は幕臣に取り立てられるという大出世を遂げた。しかしこの屯所が使われたのは、同年12月14日までで、半年にも満たなかった。屯所の詳しい所在地には諸説あり、「幻の屯所」とも呼ばれている。

 新選組は池田屋事件の後、大規模な隊士募集を行った。結果、隊士数が急増したために、新しい屯所探しが急務となった。そこで西本願寺を内部から監視するという意味もあり、境内の北集会所を屯所として借り受けることにした。

 西本願寺は勤王派だった。元治元年(1864)の禁門の変の時には、敗走する長州兵を僧の格好をさせて逃がした。このことから、幕府に目をつけられていたのである。

 慶応元年(1865)3月、屯所が壬生から西本願寺に移転された。北集会所は300畳もある巨大な建物だったため、大工を雇って小部屋をたくさん作らせ、また太鼓番屋(太鼓楼)も使用した。

 この時、新選組は八木邸母屋の東側に建てていた道場「文武館」を解体して運んでいき、牢屋や首切り場もつくった。そして境内で剣術や鉄砲の訓練を行ったため、寺は非常に迷惑したという。

 同年の閏5月末頃、幕府典医の松本良順がこの屯所を訪れたところ、隊士の総数170〜180名のうち3分の1が病人で、裸体で寝ていたという。そこで良順は浴場の設置を指導し、門人を派遣して治療にあたらせた。また隊士の栄養改善や体力増強のために、豚や鶏を飼育し食べることを勧めた。ところが、屠殺時の悲鳴や調理時の臭いに、かえって寺は頭を悩ませたという。

 慶応3年(1867)6月15日、新選組は屯所を西本願寺から不動堂村に移した(移転時期は秋という説もある)。2度目の屯所移転で、この不動堂村が京都最後の屯所となった。

 不動堂村屯所は、西本願寺が新選組の立ち退きを条件に新築費用を出したもので、大名屋敷のような立派な建物だった。1万平方メートルという広大な敷地に、表門、高塀、玄関門、長屋、使者の間、隊士たちの部屋、近藤や土方らの居間、客間、厩(馬屋)、物見櫓、中間や小者の部屋などがあり、美麗を尽くし使い勝手が良いように作られたという。また寺のように広い台所や、1度に30人が入れる風呂も作られた。

 子母澤寛の『新選組物語』にも、
「屯所は真ん中が広間で、左右に広い廊下が通り、右側にいくつも並んでいるのが平同志(平隊士)の部屋で、右側に並んでいるのが副長助勤(組長)の部屋でした。今でいうところの大きな高等下宿か寄宿舎のようなものでした」
 とある。

 そして移転後まもなく、新選組隊士は幕臣に取り立てられるという大出世を遂げた。しかしこの屯所が使われたのは、同年12月14日までで、半年にも満たなかった。屯所の詳しい所在地には諸説あり、「幻の屯所」とも呼ばれている。

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木村 武仁

きむら たけひと

1973年京都府生まれ。霊山歴史館(幕末維新ミュージアム)学芸課長。専門は幕末・明治維新期における思想史と政治史。著書に「ようわかるぜよ!坂本龍馬」(京都新聞出版センター)、「図解で迫る西郷隆盛」(淡交社)。


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