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戦国のインサイダー? 豊臣秀吉の領収証と払出証

季節と時節でつづる戦国おりおり第280回

 大阪府の某私立小学校建設をめぐる騒動。首相から学校側に寄付金100万円が渡されたなどという爆弾発言も飛び出し、もう何が何やら登場人物のすべてがうさんくさい感じになって参りまして、ここで関係者間のお金のやり取りを証明する様な領収証の1枚でも出てくれば、もう韓国の大統領弾劾も真っ青の事態へと発展しそうです。
 というわけで、今回は領収証の話。

「銀山正月分公用の事、合計五十枚(ただしこの内六十目は、三百枚のかけ出し)を受け取りました」

 今から436年前(天正9年2月16日、現在の暦で1581年3月20日)に書かれた羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)の受取状だ。
 宛先は生熊左介という但馬生野銀山の織田家代官、つまり織田信長の家臣。生熊氏では左兵衛尉という人物も生野銀山の代官を務めており、その他の史料にも信長の家臣としてこの名字が見える。

生野の町(フォトライブラリー)

 生野銀山から40kmほど東、丹波の多紀郡の土豪に生熊氏があるから、彼らはその一族で、地理的な関係から生野銀山での産銀を京・大坂へ搬送するネットワークを持っていたのではないだろうか。

 ともあれ。この受取状の内容を見てみると、秀吉は経費として銀50枚を受け取り、その明細としてこの内の60匁については300枚の掛け出しである、と注記している。
 掛け出しというのは計測して出た量目の増加、重さが以前測ったときより増えている分、という意味だから、前回計測した銀300枚を再計測した結果、60匁多かったから、それを今回の50枚分の一部として計算に繰り入れて帳尻を合わせた、という事だろうか。銀1枚は43匁(161g)だから、1.5枚分ほどが帳尻分となる。小学校から算数はてんでダメだった筆者であるから、間違っていたらご指摘いただきたい。

 この様に、秀吉は細かく検査し、計量し、計算した結果をしっかりと受取状に記入していた。前回分の300枚もそうだが、織田家から支給される形で受け取った銀は、4ヵ月後の因幡進軍~有名な鳥取城大包囲戦開始に向けての軍資金に回ったのではないだろうか。合計350枚の銀というと、金に直すと268両、現在の価値で5~6000万円というところである。

 生熊左介については他の史料でもその働きが確認できるものがある。この領収証と同じ年か、その少し前のもので、秀吉が伊藤吉次という自分の出納担当の家来に宛てた指示書の中に登場しているのだ。
「私がお前に預けた金子十五枚、脇坂安治がお前に預けた金子三枚、同じく預けた銀子、小西立佐の関係から受け取っていた金子、これら全てを生熊左介に渡せ」とある。まさに払い出しの指示書だ。

 脇坂安治はのち「賤ヶ岳七本槍」のひとりとなり、洲本3万石の城主となる。小西立佐は行長の父で、瀬戸内海貿易をおこなう堺・京の豪商。
 この指示書はこのあとが虫食いで判読が難しいのだが、どうも続けて「持ち出した分以外は残りを全て売るから」的な事を書いているようだ。ということは、左介は金銀の運用投資にすぐれた実績をあげ、秀吉やその家臣、それに堺商人までが自分で利殖するより左介に預けた方が高利回りを期待できる時期なり場面なりがあったということだ。確かめてみると、たしかに天正6年から10年にかけては金の価格が高騰していっているが、その中でも特に変動が大きいタイミングで左介が金銀の売買をおこなったのだろうか。
 
 この取り引きの詳細が記録として残っていれば面白いのだが、銀山の代官が金銀の取り引きをおこなうというのは明らかなインサイダー。現代であれば、記録は存在してはいけないのである。そう、大阪の小学校がらみの領収証の様に。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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