『本の雑誌』と『ダ・ヴィンチ』と『よむ』【新保信長】 連載「体験的雑誌クロニクル」24冊目
新保信長「体験的雑誌クロニクル」24冊目
子供の頃から雑誌が好きで、編集者・ライターとして数々の雑誌の現場を見てきた新保信長さんが、昭和~平成のさまざまな雑誌について、個人的体験と時代の変遷を絡めて綴る連載エッセイ。一世を風靡した名雑誌から、「こんな雑誌があったのか!?」というユニーク雑誌まで、雑誌というメディアの面白さをたっぷりお届け!「体験的雑誌クロニクル」【24冊目】「『本の雑誌』と『ダ・ヴィンチ』と『よむ』」をどうぞ。

【24冊目】『本の雑誌』と『ダ・ヴィンチ』と『よむ』
雑誌は好きだけど本(書籍)は嫌い、本は好きだけど雑誌は嫌い、という人はまずいないだろう。いたらよっぽどの変人だ。本好きと雑誌好きはだいたい重なっている。だから、たいていの雑誌に書評欄があるわけだ。ならば、書評欄だけ、本に関する情報だけの雑誌があってもいい。その雑誌のタイトルとして最初に思いつくのは何かといえば、それはやっぱり「本の雑誌」ということになろう。
実際に『本の雑誌』(本の雑誌社)の誌名が決まったのも、そんなノリだったらしい。目黒考二『本の雑誌風雲録』(角川文庫)によれば、目黒、椎名誠、沢野ひとしの3人で新宿の居酒屋で飲みながら「こんな雑誌をやりたいね」と話しているときに〈椎名が大きなカバンから突然ノートを取り出し、バサッとひろげると考える間もなくスラスラと書いた〉のが「本の雑誌」だった。そのまんまではあるが、「本なのか雑誌なのか」という一瞬の幻惑感もある。目黒も「いいね、これでいこうよ」とすぐに賛同したという。
そもそもは、目黒がSF新刊の評を便箋数枚に書き、「SF通信」と題して椎名に送り付けたのが始まり。「おれにも送れ」という希望者が増え、名前も「読書ジャーナル」「めぐろジャーナル」と変わっていく。そこで〈こういう新刊情報を盛り込んだ雑誌が市販されたらたとえ1000円でも買うけどな、と椎名が言い出した〉が、現状そういう雑誌がない。じゃあ自分たちで作ろう――となるのは自然な流れである。
かくして1976年4月、『本の雑誌』創刊号が刷り上がった。部数は500部。〈そのうち100部は仲間うちに配ってしまったので書店売りは残りの400部だ。見も知らない人が400人もはたしてこの雑誌を買ってくれるのだろうか、と心細い気持で4月末の日曜日、ぼくは水道橋駅に降りた。カバンに創刊号を詰め、水道橋から神保町、駿河台下からお茶の水まで、大通りに面した神田の新刊書店を軒並み歩いてまわるつもりだった。新宿でも銀座でもなく、真っ先に神田を思い浮かべたのは、こういう雑誌の読者がもしいるなら神田だろうという漠然とした考えでしかない〉と目黒は綴る。
詳しい経緯は同書をお読みいただきたいが、ほぼミニコミ(今でいうZINE)的な感じでスタートしたのが『本の雑誌』だった。創刊当時、大阪の小学6年生だった私は、もちろん存在すら知らない。最初に手に取ったのがいつかも記憶にない。が、同誌の存在をはっきり認識したのは、「青木まりこ現象」が話題になったときだ。

