「公衆」に希望を見出したデューイ

 一方、アメリカの哲学者ジョン・デューイ(1859~1952)は、リップマンの現状認識を受け容れつつも、異なる道を提示する。

 たしかに民主主義に積極的に参加する主体として想定された「公衆」は見られなくなったかもしれないが、「公衆」そのものが存在しなくなったわけではないとデューイは主張する。デューイは、ある物事が引き起こす結果の影響を被る複数の人たちという意味での「公衆」は存在し続けると考えたのである。

 問題は、そういった人たちが、自分たちが「公衆」を形成していることに気づかないまま、意識的にまとまっていないということだ。都市化、工業化、大衆社会化によって、かつての親密な絆が薄れ、人々は大衆としてバラバラになった。また、大衆社会化は物事の影響関係を複雑化し、見えづらくした。人々は、実際には何らかの物事の共通の影響を受け「公衆」となっているにも関わらず、その影響が気づきにくいものとなっているために、それに気づけなくなってしまっているのである。

 だが、ひとたび自分たちにとっての共通の問題に気づき、意識的にまとまることができれば、「公衆」が組織されて、民主主義に参加する主体となれるだろう。そのためにも、デューイは知識人が知識を公表して多くの人が共有できるようにすること、ニュースの伝え方を工夫していくことなどを、具体的な対処法として提示した。その際には、バラバラな点に過ぎない個人を、線で繋いて一つの「熱」を持った「公衆」へと組織する。そのためにも、大衆が共通の問題意識に気づき、意味を見出せるような伝え方が必要となるだろう。

 リップマンと違い、デューイは「公衆」としての在り方を見失った大衆に幻滅するのではなく、大衆が再び「公衆」として積極的に公共的な事柄に参加するようになると期待していた。つまり、20世紀の大衆社会化によって生じたポピュリズムをペシミスティックに捉えるだけでなく、希望をも見出していたのである。

次のページ 民主主義の熱を盛り上げていかなければならない