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知恵は知識ではない【森博嗣】新連載「日常のフローチャート」第31回

森博嗣 新連載エッセィ「日常のフローチャート Daily Flowchart」連載第31回


森羅万象をよく観察し、深く思考する。新しい気づきを得たとき、日々の生活はより面白くなる――。森博嗣先生の新連載エッセィ「日常のフローチャート Daily Flowchart」。人生を豊かにする思考のツール&メソッドがここにあります。 ✴︎BEST TIMES連載(2022.4〜2023.9)森博嗣『静かに生きて考える』が書籍化(未公開原稿含む)。絶賛発売中。


 

 

第31回 知恵は知識ではない

 

【不要になった記憶力】

 

 前回は「思いつく」ことの大切さを書いた。思いつくことは、思い出すことではない。「思い出す」とは、一度インプットした情報をアウトプットすること。学校のテストのほとんどがこれだった。つまり、記憶(頭に入れたもの)を、再生する(そのまま出す)行為である。そしてこれは、コンピュータが最も得意とする作業であることはいうまでもない。少し昔には、頭の良い人のことを「機械のようだ」と称賛したくらいだ。

 コンピュータは、誰もが使えるツールになり、現にほとんどの人が片手にそれを持っている。手放せない人が大勢いるようだが、自分の頭よりもその機械の方が精密で、速く、しかも正しいと感じているから手放せない。

 「思い出す」ためには覚えないといけなかったが、もうインプットさえ不要になった。コンピュータが勝手に勉強してくれるから、人間が覚えようとしなくても情報が出てくる。勉強しなくても良いなんて、こんな楽なことはない。力仕事をしなくても良い時代になったのと同様に、人間の頭脳も、働かせる必要がない時代になった。

 社会では、ものを知らない、つまり知識がない人間を馬鹿にする風潮がある。馬鹿とは無知だ、と認識されている。だから、人を馬鹿にしたいとき、「こんなことも知らないのか」と罵った。今でも、この認識は根強く、議論で相手を攻撃するときにも、知識不足を非難したり、間違った知識を持っていることを指摘する。

 このような「知っている」能力は、現代ではほぼ無価値になりつつあることに、まだ気づいていないのかもしれない。知らないのではなく、気づいていないのである。

 記憶を再生する作業では、精確さが問題になる。だから、具体的で詳細なものが記憶の対象となる。精度を上げ、能力を確かめるために、どんどん細かいデータを扱う傾向があり、そういった難しい問題に答えられることが頭脳明晰な人の証明となった。良い大学に入るためにも、このような頭の使い方を訓練したのだ。

 一方で、「思いつく」能力は、訓練する方法が確立されていない。どのように教育すれば良いのかも曖昧なままで、稀に現れる天才を待つしかなかった。

 記憶と再生の能力(記憶力)は、現代ではほぼ不要となり、せいぜいクイズ番組で人気者になれる程度まで価値が下落した。AIの普及で恐れ慄いているのは、このような訓練で「賢さ」を鍛錬してきた人たちだろう。

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 世の中はますます騒々しく、人々はいっそう浮き足立ってきた・・・そんなやかましい時代を、静かに生きるにはどうすればいいのか? 人生を幸せに生きるとはどういうことか?

 森博嗣先生が自身の日常を観察し、思索しつづけた極上のエッセィ。「書くこと・作ること・生きること」の本質を綴り、不可解な時代を見極める智恵を指南。他者と競わず戦わず、孤独と自由を楽しむヒントに溢れた書です。

 〈無駄だ、贅沢だ、というのなら、生きていること自体が無駄で贅沢な状況といえるだろう。人間は何故生きているのか、と問われれば、僕は「生きるのが趣味です」と答えるのが適切だと考えている。趣味は無駄で贅沢なものなのだから、辻褄が合っている。〉(第5回「五月が一番夏らしい季節」より)。

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森博嗣

もり ひろし

1957年愛知県生まれ。工学博士。某国立大学工学部建築学科で研究をするかたわら、1996年に『すべてがFになる』で第1回「メフィスト賞」を受賞し、衝撃の作家デビュー。怜悧で知的な作風で人気を博する。「S&Mシリーズ」「Vシリーズ」(ともに講談社文庫)などのミステリィのほか、「Wシリーズ」(講談社タイガ)や『スカイ・クロラ』(中公文庫)などのSF作品、また『The cream of the notes』シリーズ(講談社文庫)、『小説家という職業』(集英社新書)、『科学的とはどういう意味か』(新潮新書)、『孤独の価値』(幻冬舎新書)、『道なき未知』(小社刊)などのエッセィを多数刊行している。

 

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