その姿は世間的に見て、自暴自棄にも見えることでしょう。ただ、自傷的、自虐的、自滅的にしか、自我の確認や生きている実感を得ることができない人もいます。この女性や、さきほど紹介した中学生などは、おそらくそういうタイプか、もしくはその予備軍なのです。

 もちろん、そこには痛々しさやむなしさのようなものが漂っています。その正体について考えるとき、ふと思い出されたのがこんな言葉です。

「食べ物は愛の代用品ではない」(註1)

 これについては、過食から抜け出す方法としてのちほど詳しく触れるつもりですが、要は過食の背景に、満たされない愛を食べ物で埋めようとする心理が働いているということです。つまり、食べ物が愛の代用品にならないことに気づくことが大事なのだと。それと同じで、売春や援助交際も、愛の代用品にはならないわけです。いわば「愛のないセックス」なのだから、当然といえば当然ですが……。

 しかも、万引きのように、摂食障害の「症状」だという見方が浸透し始めているわけでもありません。見つかれば、情状酌量される可能性は低いでしょう。

 では、合法的な性風俗産業の場合はどうなのか。じつは、こうした世界で働く瘦せ姫も一定数います。もちろん、この場合でも「癒し」より「ストレス」が上回ることを危惧(きぐ)してしまいますが、ここではあえて、ひとつのメリットについても書いてみます。

 それは自力で稼ぐことが自信につながったり、社会勉強になったり、さらには性的なものへの耐性がつくこともあるのでは、ということ。性的なものの本質については、たとえばこんな表現があります。

「あいつは見てるよ。めすとみりゃ、なんにでものしかかっていくのさ。あたいでも、スパニエル犬でも、ニワトリでも、めす馬でも。なんとかできると思えば、裁縫用のマネキンにだってのしかかるさ。だから、ね、あんたみたいな骸骨でもね!」

 これは『キルト―ある少女の物語』(スーザン・テリス)(註2)という瘦せ姫小説に出てくる一節です。望まない結婚を拒否したい衝動から拒食症になり、性の対象から逃れられたと安心していたヒロインはこの言葉を突きつけられ、戦慄(せんりつ)します。

 また、実話をもとにしたと思われる『拒食症の家』(吉川宣行)(註3)には、阪神大震災直後にプールで泳いでいた拒食症の女子高生が見知らぬ男にレイプされる話が描かれます。それこそ「なんにでものしかかっていく」男性が少なからず存在することは、東電OLのケースを見ても明らかでしょう。

 とまあ、男性の性はときに乱暴で大ざっぱです。もちろん、法律上は最終段階まで行くことは禁じられているわけですが、こうした性的本質のひとつに対して、慣れるというかあきらめを持つことがプラスに働くこともあります。人によっては、あるいはケースバイケースで、こういう仕事に挑戦することが転機になったりもするわけです。

(註1)『子どもたちの生と死』芹沢俊介(筑摩書房)

(註2)『キルト―ある少女の物語』スーザン・テリス(晶文社)

(註3)『拒食症の家』吉川宣行(エピック)

 

【著者プロフィール】 

エフ=宝泉薫(えふ=ほうせん・かおる) 

1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』などに執筆する。また健康雑誌『FYTTE』で女性のダイエット、摂食障害に関する企画、取材に取り組み、1995年に『ドキュメント摂食障害—明日の私を見つめて』(時事通信社・加藤秀樹名義)を出版。2007年からSNSでの執筆も開始し、現在、ブログ『痩せ姫の光と影』(http://ameblo.jp/fuji507/)などを更新中。