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100名以上の若い家臣が信長に奉仕した3つの広間

城下は楽市楽座で賑わった・岐阜城 第4回

織田信長肖像画(写真提供/アフロ)

 

天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

フロイスの記述によれば、岐阜城の長い石段を登ると、登城途中に大きな砦が設けられ、20名くらいの若者が昼夜つめかけ、不断の見張りをしており、上に登ると、入口の最初の3つの広間には100名以上の若い家臣がいて信長に奉仕していた。

さらにフロイスが到着すると信長は内部に呼びよせて、次男信雄(のぶかつ)に茶を持参させてもてなし、前の廊下からは美濃と尾張の大部分が眺望できたという。廊下の内にはきわめて豪華な部屋があり、すべて塗金した屏風で飾られ、中には1000本以上の矢が置かれていたことが記されていた。

『言継卿記(注)』にも武井夕庵(ゆうあん)の案内で七曲道から登城し、山上の城中で音曲(おんぎょく)などのもてなしで食事をしたこと、その後、城内を信長の案内で見物したが、道があまりにも険しく大変であったので、風景どころではなかったことが記されている。 

さて、これらの記事から、この時に天守が存在し、それが慶長5年(1600)の岐阜城落城の際に加納(かのう)城二の丸に移築されたといわれる「御三階の櫓」だとする説が生まれた。(続く)

(注)言継卿記/室町時代末期の公家、山科言継の日記。大永7年(1527)から天正4年(1576)の50年に渡って書かれているが、散逸部分も少なくない。戦国期の文化、芸能から政治情勢までを知る上で貴重な史料。

 

●岐阜城データ
城の種類/山城
所在地/岐阜県岐阜市天主閣18
築城年/建仁元年(1202)
施設/御殿、本丸、櫓、土塁、堀

 

文/木戸雅寿(きど・まさあき)

1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。

 

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