個人は歴史の「タテ軸」と社会の「ヨコ軸」の交点に存在する

 考えてみると、わしという人間も自分ひとりでつくり上げたわけではない。

   何よりも「個」が大切だと考えていた頃のわしは、自分の実力があればどこへ行っても勝負できると思っていた。たとえば日本を飛び出してアメリカに行けば、ハリウッドでわしの作品を大ヒットさせ、一晩で書き上げた『ロッキー』の脚本でアメリカン・ドリームを実現したシルベスタ・スタローンと同じことがやれると自負していたのだ。この留まるところを知らない才能さえあれば、日本という枠組みなど関係ないと自惚れていた。

 それが象徴的に表出されたのが、「天皇は天皇、わしはわし」という個人主義的発言だ。しかし、わしが才能を発揮している漫画というジャンルは、もちろん外国にもあるとはいえ、日本の先人たちが脈々と築き上げてきたものである。わし自身、子供の頃から手塚治虫や石ノ森章太郎といった大先輩の作品を読み、その手法に学びながら、自分の作品を描いてきた。日本独自の歴史的な発展がなければ、『東大一直線』や『おぼっちゃまくん』があれほどの大ヒット作になることはなかったはずだ。つまり人間は、歴史という「タテ軸」と無縁ではいられない。

 また、わしの漫画がヒットして大きな収入を得られるのは、日本の社会がそれだけの経済的余裕を持っていたからである。前にも話したとおり、わしは子供たちのお小遣いを分けてもらうことで大きな成功をつかんだが、当時はまだ日本社会に分厚い中流層があったから、子供たちが漫画の単行本を次々と買うことができた。しかし経済がおかしくなり、貧困層が四割を占める現在は、漫画もあの時代のようには売れない。漫画を買ってくれる人たちが裕福でなければ、どんなに才能のある漫画家でも生きていけないわけだ。つまり人間は、社会という「ヨコ軸」とも無縁ではいられない。

 このように、あらゆる個人は歴史というタテ軸と社会というヨコ軸が交差する一点に位置している。歴史や社会から解き放たれた完全に自由な「個」などあり得ない。そして、このタテ軸とヨコ軸を合わせたものが「公」という概念だ。だからこそ、「公」を意識せずに「私」の利益だけを追求する姿勢では、真の個人主義にならないのである。

 わしは、オウムや薬害エイズでの経験によって、すぐにこういう考え方に到達したわけではない。ここで日本人の「個の確立」に疑問を抱いた後、従軍慰安婦問題や教科書問題に関わり、歴史を学ぶ中で、「個と公」についての思想を深めていった。その先にあるのが、『戦争論』である。