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罪人となった中島登の最期

新選組の生き残りが描いた真実 第7回

新選組の維新後の生き残りといえば、斎藤一に永倉新八、島田魁らが有名だ。中島登は、知名度では歴戦の隊長や伍長に譲るが、同志を描いた『戦友姿絵』によって、確かな足跡を遺した。その生涯と、絵に秘められた想いに迫る。

箱館戦争に参加した中島登は土方歳三にピッタリついて行動した。明治2年(1869)5月11日に、土方が壮絶な戦死をとげると、直後の5月18日、榎本武揚は降伏した。籠城軍将兵はすべて罪人となった。登は青森に送られ最後は油川明誓寺(あぶらかわみょうせいじ)、ついで弘前の薬王院(やくおういん)さらに青森の蓮華寺(れんげじ)で謹慎した。10月には箱館の弁天台場に送られた。明治3年(1870)5月には、徳川家が70万石の石高で存続を認められ、静岡藩に引き渡された。画集『戦友姿絵』と、敗走する隊について記録した『中島登覚え書』は、この約1年あまりの幽囚生活中に書かれたという。静岡で釈放された登は故郷の多摩に戻った。日野の里に行き、土方の生家で『覚え書』を示した。

謹慎中に新選組の回想を記録したのは登だけではない。永倉新八(ながくらしんぱち)、島田魁、横倉甚五郎などもそれぞれ残している。新選組の通史、隊士の記録、近藤・土方たち幹部たちの描写などについては、やはり結成当初から参加していた永倉新八の書いたものが貴重だろう。しかし「生き残った者の回想」には、全面的には信を置けないものだ。どうしても郷愁が生まれ、当時の目的の拡大化や美化がおこなわれやすい。

しかし、「遅れてきた青年」である登には、それほど自慢できる戦功もない。誇大化しようにもその種になる経験そのものが乏しいのだ。その意味では、『覚え書』に連ねられた「戦友名簿」は良心的な記録といっていい。山口二郎(齊藤一)討死などの誤聞誤記はあるにしても。

その後の登は浜松に住んだ。葉蘭の栽培などを行ったという。明治17年(1884)には「鉄砲火薬売買」の免許を得て商売した。明治20年(1887)4月2日に病没する。まだ50歳だった。墓は浜松市の寺にある。

 

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童門 冬二

どうもん ふゆじ

どうもん・ふゆじ/1927年、東京都生まれ。東京都立大学事務長、東京都広報室長・企画調整局長・政策室長などを歴任し、1979年から作家活動に専念。著書に『韓非子に学ぶ ホンネで生きる知恵』(実業之日本社)、『小説 新撰組』『小説 上杉鷹山』(ともに集英社)、『新撰組 近藤勇』(学陽書房)など多数。


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