斎藤 主婦が「ひきこもり」と見なされなかった理由として、いわゆる厚生労働省の定義の範囲では、主婦は血縁のある肉親以外の他者、夫との関係を持っているので、定義上は「ひきこもり」とは言いづらいところがあるわけです。ただ実際に、主婦の中にはひきこもり同然の生活を送っていて、両親や姑、舅などに追いつめられ、苦しんでいる人もいるのは事実です。主婦がひきこもりかどうかという議論より、ひきこもり的な状況に苦しんでいるのであれば、必要に応じて支援対象にしたほうがいいということは当然のことだと思います。

これは、潜在的には戦前からある問題で、例えば谷崎純一郎の「細雪」はひきこもりの話なんですよね。主人公の雪子が、完全なひきこもりなんですよ。ところが、誰もそれを問題にしていない。彼女の縁談がこの作品の一大テーマですが、恋人はおろか友達がいない、家族以外との交際が全然ない点については、誰も問題にしないんです。親戚の子どもに優しくしたり、家事を一生懸命やったりとか、そういう家のために頑張っている女性は完全なひきこもりであっても、本当に問題視するという視線自体がなかったわけです。そして最後にやっと嫁に行くというところで話は終わります。

 これが当たり前だったということを考えると、特に女性にとって社会参加は嫁に行くというのが最も主流で、あとは例外的に就労するとかですね、そういうケースしかなかったんじゃないか。つい最近まで日本にあったそういう風潮が、まだ根強く生き残っていると思いますね。社会参加しなくても叩かれない、責められない、専業主婦論争はその延長線上にあると私は思っています。

 その是非はともかくとして、社会が専業主婦という存在を不審に思うかどうかという視線は、日本は欧米と大きく違いますね。村上春樹も、妻が何にもしていない、ハウスキーパーだというと、みんな異様な目で見てそんなことあるのかみたいな顔をされるので、写真家という肩書をつけましたってエッセイか何かに書いていましたけれども。そういう立場が公に容認されている社会と、存在すら表向きはないことになっている社会との違いというのはそういうところに出ていると。僕はこれもジェンダーイクオリティの問題と関係してくると思っています。

池上 今、お話を聞いていて思ったのは、これまで専業主婦ということは特に問題もなく、ひきこもっていても、誰も困らない。本人の都合というよりも、むしろ周囲の人たち、夫や家族からすると、家にいてもらったほうが危険にも遭いにくいから、自分が安心できる。

 そもそも主婦というのは、家で家事をするものだという前提がありました。それでも、社会ともかかわっている、社会に参加しているという方々もいます。ただ一方で、本当は、こんなはずではなかったとか、自分の思い描いてきた人生を生きたかった、これまで積み上げてきた「キャリア」を生かしたかった人たちが少なからずいます。

 いろんな事情や、いろんなきっかけで夢を諦め、専業主婦を演じながら、家族以外、夫以外との関係が遮断されているという状態になっている人たちがいて、本当は自分も働きたい、社会で役割を得たいと思いながら、家から出られずにいる状況から脱却できなくなっている現実もあるようです。

 そこのところをもっと社会として、クローズアップしていかなきゃいけないのかなという問題意識を持つようになりました。

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