言葉は言葉どおりではない【森博嗣】
森博嗣「静かに生きて考える」連載 第35回
パンデミック、ウクライナ戦争、安倍元総理の暗殺、生成AIの衝撃・・・予測もつかない出来事が絶えず起こっている世界で、私たちがよく観察し、考えるべきこととはなんだろう。森先生の日常世界にそのヒントがたくさんひそんでいるようだ。ふと自分の足元を見つめ直したくなる「静かに生きて考える」連載第35回。
第35回 言葉は言葉どおりではない
【知りたいから尋ねているだけなのに】
何度か書いていることだが、僕はなにかを捜すことが多い。自分が認識している位置にそれがない場合、この不思議を解決するには見つけるしかない。同じ建物にもう一人、僕以外の人間が住んでいるから、対象物が消えた理由は、(僕が覚えていない以上)その人物が知っている確率が高い。だから、その人(奥様、あえて敬称)に、「○○を知らない?」と尋ねる。
僕の質問は、イエスかノーかで目的を達する。イエスなら場所を質問すれば良いし、ノーなら捜索をさらに続けるだけだ。無駄な捜索を続けなくても良い可能性があるから尋ねている。
ところが、彼女は「知らない」と答えると同時に立ち上がり、ふうっと溜息をついてから、どこかへ消えていく。何をしているのかというと、僕が捜しているものを彼女も捜し始めるのだ。だから、「あ、いいよ。すぐに必要なわけではないから」と彼女に謝るはめになる。これは事実で、必要になるのは明日とか来週なのだ。それを今のうちに確かめようとしているのは、僕の「せっかちさ」に起因している。しかし、それが彼女には気に入らない。すぐに必要でないものを、何故人に尋ねるのか、という憤りらしい。
こういった経験を百回以上積んだのち、まず、「すぐに必要じゃないし、捜してほしいわけでもないけれど、もしかして、○○を知らない?」ときくようになった。
人に質問することは、その言葉以上の意味に拡大解釈される。「ただの質問です」とか「知りたいだけです」などと断らなければならないのだろうか?
これに似た状況は、普段の人間関係、仕事でも友人間でも、頻繁に観察できる。たとえば、誰かがミスをしたとき、「どうしてこんなミスが起きたの?」と質問すると、そのミスを責めているように受け取られる。こちらは「責任を取れ!」と叱っているのではない。ただ、ミスが起きた原因が知りたいだけなのに、相手は「すみません」と謝るばかりで、こちらの疑問に答えてくれない。だから問題を解決できない。わざわざ「あなたの責任を問うているのでなく、原因を知りたいだけです」と断らなければならない。「どうすれば、ミスを防げますか?」と質問しても、「今後は気をつけます」と言われる。気をつけているだけで防げるものなのか、それは少し違うだろう、といいたくなってしまう。