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幾多の名鑑を生んだ東洋一の軍港の面影をたどる

広島の戦争遺産は原爆ドームだけじゃない。

G7の外相会議が開かれたことで、あらためて平和都市として注目を集めている広島県。本稿では、原爆ドーム以外の戦争遺産を紹介する。

広島・呉に海軍の拠点がつくられた理由

毎週日曜に一般公開されている明治40年竣工の旧呉鎮守府庁舎。現在は海自呉地方総監部第1庁舎となっている

 広島は、明治時代になってまもなく、鎮台が置かれて陸軍の重要拠点になった。少し遅れて海軍も本州西部と四国沿岸、九州東岸の防御を担当する第二海軍区を設定し、本拠地を広島県内に求めた。
 そして三原、江田島とともに候補に挙がった呉村が選ばれ軍港が築かれることになった。瀬戸内海の良港で地理的に停泊能力が高く、唯一外国と接しない海軍区であるため艦艇の修造や訓練にも有利であった。明治23年(1890)4月21日に呉鎮守府の開庁式が明治天皇臨席で行われた。

 呉には海軍病院、海兵団、水雷団、潜水学校、燃料廠など、さまざまな施設や部隊がつくられた。なかでも、もっとも重要だったのは、鎮守府直轄の兵器工場である工廠である。鎮守府の設置と同時に設けられた呉造船廠は、明治36年(1903)に造兵廠と合併して海軍工廠となった。

 呉の工廠は東洋一の規模を誇る造船船渠(ドック)を持ち、戦艦、大型巡洋艦、潜水艦のネームシップ(一番艦)を担当。戦艦建造については指導的な立場をとっていた。それは他の工廠にはなく、呉にだけ併設され、砲塔や装甲板の製造、開発を行っていた砲熕部や製鋼部の存在からもわかる。
 またわが国に古くから伝わる和鋼を特殊鋼に応用するなど、先端的な軍需鉄鋼研究の拠点でもあった。戦艦安芸に始まり、明治38年(1905)には最初の国産主力艦である筑波級を建造。扶桑や長門、そして大和もここ呉で造られたように、終戦にいたるまで海軍第一の造船部門であり続けた。

空襲被害も大きかった呉

 東洋一の軍港、日本一の工廠として知られていた呉だったが、太平洋戦争末期には空襲を受けて大きな損害を受ける。そして終戦後はイギリス連邦占領軍が進駐、旧呉鎮守府司令長官官舎が司令部になった。
 工廠は播磨造船所とアメリカ資本のナショナル・バルク・キャリアーズ(NBC)に払い下げられ、現在はジャパンマリンユナイテッド呉工場として操業、鉄鋼技術はJFEスチールなどに引き継がれた。

広島湾と呉軍港を守った広島湾要塞高烏堡塁砲台の花崗岩で造られた兵舎跡。大正15年(1926)に廃止されたが太平洋戦争時は海軍が高角砲を置いた

 旧軍港には護衛艦隊、潜水艦隊や練習艦隊などが所属する海上自衛隊呉基地が置かれている。また海軍が整備した上水道などのインフラ施設は、呉市が引き継ぎ現役で使われている。現存する旧鎮守府施設は海上自衛隊の一般公開や入船山記念館で見学でき、工廠の面影は「アレイからすこじま」、歴史の見える丘に建つ「旧呉海軍工廠礎石記念塔」などに見ることができる。

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飯田 則夫

いいだ のりお

昭和37(1962)年、茨城県生まれ。大学卒業後、システムエンジニア、編集プロダクション勤務などを経て、フリーランスライターとして独立。「予科練」など旧海軍航空隊が身近な環境で育ったことから、近代日本の足跡を知る歴史素材として、学生時代より旧軍史跡に興味を持ち、各地を探索してきた。

著書に『図説 日本の軍事遺跡』(ふくろうの本)、『TOKYO軍事遺跡』(交通新聞社)、『大日本帝国の戦争遺跡』(KKベストセラーズ)などがある。


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