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思想家としての「小沢健二」入門

■思想家/哲学者としての小沢健二

 

 ここからは、本記事の本題である「思想家/哲学者としての小沢健二」について論じていく。

 その前に、ここで論じるのはあくまでも「私が小沢健二から受け取った思想」であり、「小沢健二の思想そのもの」ではないことをご承知いただきたい。

 そもそもプラトンを読もうがアレントを読もうが、一冊の本にまとめられているものは彼らの哲学的思索のほんの一部なのだし、彼らと同じ哲学的思索を踏破していない我々が彼らの本を読んだところで、彼らの思想を完全にものできるはずがない。彼らの著作から「知ったかぶりはよくない」とか「民主主義の前提は知性に優れた人同士の議論だ」みたいなことを吸収したとしても、それらはあくまで「彼らの著作から私が受け取った思想」に過ぎず、本人の思想にとっては海面の泡程度のものだったり、あるいは単純に私の誤読かもしれない。

 その上で、私が小沢健二から受け取った価値観や思想をいくつかのキーワードにまとめると、

「温故知新」

「信仰を軽んじないこと」

「手仕事を大切にすること」

ということになり、私の考えや行動の重要な指針になっている。

 

■「温故知新」

 

 フリッパーズのデビューから、少なくとも90年代の一連のソロ作品までの小沢健二の楽曲は、歌詞が高く評価されていた一方、作編曲には「パクリ」という批判がされることも多かった。実際フリッパーズの3rdアルバム『ヘッド博士の世界塔』は、(恐らく現代のコンプライアンス基準では問題があり、元ネタ側の許可を取るのが難しいのか、)長らく廃盤になっている。ファンにしてみれば、フリッパーズ/小沢健二が楽曲をパクっていることは承知の上で、「センスいいポップスを紹介してくれるお兄さん」的な扱いをしていた面もある。

 

 フリッパーズ~ソロの初期の小沢健二が引用していた曲には「知られざる佳作」(いわゆる「レア・グルーヴ」)みたいなものが多かったが、オザケン人気を不動のものとした小沢健二の2ndアルバム『LIFE』以降は、ポップス史に残るメジャーなミュージシャンからの引用が目立つようになった(と私は感じている)。

 パッと思いつく名前を挙げると、マイケル・ジャクソンやジャクソン5、ポール・サイモン、プリンス(のバングルスへの提供曲)からメロディやリフを引用しているし、アルバム『LIFE』のロゴはスライ&ザ・ファミリー・ストーン(ファンクミュージックのオリジネイターのひとつ)の同名アルバムそのものだ。日本のバンドでもゴダイゴからメロディを引用している。

「小沢健二のようになるには、小沢健二が触れてきた作品に触れなければならない」と直観した私は、それら引用されたミュージシャンの楽曲をむさぼるように聴き、次第に私の水に合った7080年代の洋楽を広く愛聴するようになった。

また、曲の引用ではないが、「天使たちのシーン」という曲の歌詞には「スティーリー・ダン」というバンド名が出てくる。「天使たちのシーン」を初めて聴いてから4年後、黒い背景に怪しくたたずむ山口小夜子がジャケットのCDHMVで見つけて「おお、これがスティーリー・ダンか」と買ったことが、フュージョン、ひいてはジャズを愛聴するきっかけにもなった。小沢健二が引用した楽曲が、先行するポップスや、さらにその源流にある音楽の豊かな水脈との橋渡しになったのだ。

 このような経験を重ねる中でいつの間にか、私の中で「偉大なものの背後には、先行する偉大なものがある」「偉大さに少しでも近づきたいなら、先行する偉大なものを吸収すべきだ」という、「温故知新」の思想が血肉になっていったのだった。

 

■「信仰を軽んじないこと」

 

 小沢健二には「神様」に言及した歌詞が多い。90年代の曲(私にとっては、「ファンになった時にすでに発表されていた曲」ということでもある)では、例えば以下のような形で「神様」について触れている。

 

「神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように」(「天使たちのシーン」)

「それでここで君と会うなんて 予想もできないことだった 神様がそばにいるような時間」(「ローラースケート・パーク」)

「僕の心は震え 熱情がはねっかえる 神様はいると思った」(「ある光」)

 また「神」という単語は出てこないが、「戦場のボーイズ・ライフ」の曲全体、特に

「胸の奥にそっとロザリオ隠して人はみな歩く」(「戦場のボーイズ・ライフ」)というフレーズは、ある種の信仰を歌ったものと言えるだろう。

 

 小沢健二がどのような神を(あるいは仏を、なんにせよなんらかのdivineを)信仰しているか、プライベートなことに興味はない。しかし人並み外れた知性と才能に恵まれ、社会的にも成功している小沢健二にとってでさえ、「天使たちのシーン」にあるように「神様を信じる」ことが「生きることをあきらめてしまわぬ」ための支えになる。

 小沢健二に心酔しきっていた私にとって、これは大きな驚きであり、それまでの自分の常識を疑うきっかけにもなった。私が少年時代を過ごした(そして小沢健二が最初に世間で活躍していた)90年代の日本には、戦前の国家神道への反省か、あるいは統一教会やオウム真理教の反動か、「宗教や信仰の話題は、なんか気持ち悪い」みたいな空気がうっすらと漂っており、2000年代でも相変わらず続いていた(2020年代では、その嫌悪感がより顕在化しているようにも思える)が、その空気に身を沈めず、距離を置いて観察しようと思うようになった。

 

 偉大な知性も「神(ではないかもしれないが、何らかの信仰)」を必要とする。

 この驚きに一つの答えを得たのは、それから何年か後に、ローマ皇帝マルクス・アウレーリウスの『自省録』を読んだ時のことだった。

 『自省録』の中でマルクス帝は、数え切れないほど神への感謝と、神の意思に従うことについて書いている。

 私などより遥かに聡明であることが文章の端々から伝わってくるマルクス帝が神を信じていたのは、それではローマ人がまだ未開だったからかというとそうでもない。(ちなみに、彼の文章を日本語に翻訳した神谷美恵子も私などより遥かに聡明だし、彼女の代表作『生きがいについて』でもやはり「信仰」は重要なテーマになっている)

 マルクス帝自身が「「君がそんなに神々を敬うのは、どこかで彼らを見たからなのか。それともなにかの方法で彼らの存在を確かめでもしたのか」と尋ねる人々に」(向けてその理由を記す、の文脈・筆者補足)といったことを書いていることから、彼のような信仰心は、当時のローマ帝国でも決して一般的ではなかったと推察される。

 それではなぜマルクス帝は、神に感謝し、神の意思に従おうとするのか。

 彼の言葉を借りると、ひとつには、神々の支配の下に身を置くこと(そのような霊感に従うこと)は、「理性と公共精神という善きもの」を大切にし、「大衆の賞讃とか権力とか富とか快楽への沈溺のごとく本質の異なるもの」に対抗させないためだと言う。(上3段落のカギ括弧内は『自省録』(マルクス・アウレーリウス・著、神谷美恵子・訳、岩波文庫)より引用)

 これを私なりに解釈すると、しょせん人間はろくでもない生き物なので、自己都合だけで動くとろくなことをしない。しかし「神」という名の「超越的な善の視点」を自分の外に置き、そこから自分の選択や行動を照らすことで、善い行動を取ることができるわけだ。

 べらんめえ調に言えば、「テメエの都合や世間様でなく、お天道様に恥ずかしくないように生きろよ」ということになる。

 

 小沢健二から得た「信仰」というものへの疑問をこのように消化した私だが、その答え合わせになったのが、2017年に19年ぶりのシングル曲として発売された「流動体について」だ。そこには以下のような歌詞がある。

「神の手の中にあるのなら その時々にできることは 宇宙の中で良いことを決意するくらい」

「無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない 宇宙の中で良いことを決意する時に」(「流動体について」)

 

 ここでの「神」は運命を握っているものとして解釈され、新たに導入された「宇宙」という言葉が「超越的な善の視点」の比喩であることは明らかだろう。

次のページ小沢健二は、何を「善いこと」だと考えているのか?

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甲斐荘秀生

かいのしょう ひでお

ライター

東京都出身。東京大学工学部化学システム工学科を卒業、同大学院新領域創成科学研究科環境システム学専攻修士課程を修了。会社勤めと並行して、出版や広報の分野でライターとして活動するほか、舞台の音響スタッフをしてみたり、喫茶店のマスターをやってみたりと、誘われたことにフットワーク軽く乗ってみる性分。「道に通じた人から見えている景色を、必要とする人にわかりやすく伝える」がライターとしてのモットー。

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