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東北が生んだ異才・石原莞爾ゆかりの地をめぐる

東北・東京・京都…いまなお残る帝国日本の面影

帝国時代と変わらぬ日本水準原点標庫

 陸軍大学校卒業した後、ドイツ留学を経て、昭和3年(1928)関東軍作戦参謀として満州に赴任。そして昭和6年(1931)に満州事変を引き起こす。そして関東軍主導のもとで満州国が建設され、昭和7年3月、満洲国の建国に至った。

現在の憲政記念館横が陸軍参謀本部の跡地。陸地測量部の水準点がある。

 日本に帰ってきた石原が勤務したのは、陸軍参謀本部だった。参謀本部の跡地は、いまでは国会前庭庭園となっており、往時を偲ぶ手がかりはない。ただ、園内に置かれた日本水準原点標庫は帝国時代と変わらぬ形で同じ場所にある。
 皇居さえ見下ろす高台にあり、国会に背を向けて建っていたかつての参謀本部は、穿った見方をすれば不気味な存在であっただろう。なお、江戸時代は同じ場所に彦根藩井伊家の屋敷があった。

参謀本部作戦課長の任にあったとき、石原は2・26事件に遭遇する。その日、出勤した石原は、途中で決起軍の指導者安藤大尉に出会う。安藤が部下の兵に銃を向けさせて「今日はこのままお帰りいただきたい」と言うと、石原は「陛下の軍隊を勝手に動かすとは何事か。この石原をやりたかったら自分でやれ。兵隊の手を借りて人殺しをするなどもってのほかだ」と答え、そのまま通り過ぎたと伝えられている。

最後の任地・京都深草第十六師団

石原の最後の任地になった、京都深草の第十六師団司令部。庁舎は現在は聖母女学院が使用している。

 その後、昭和12年(1937)再び満州に赴任するも、翌年に参謀長として着任した東條英機中将との確執が深まり、罷免された。
 昭和14年(1939)、石原の軍人としての最後の任地になったのは、京都深草の第十六師団であった。
 日露戦争中の明治38年(1905)に外地で新設された第16師団は、41年に当時の紀伊郡深草町を衛戍地とした。
 多くの天皇が眠る深草丘陵を望んで、南北2・3キロ、東西1・6キロの広大な土地に、師団のさまざまな施設が設けられた。建物もいくつか残されており、明治41年に竣工した旧師団司令部庁舎は、現在聖母女学院が使用している。内部の高い天井も独特な照明飾りも当時のままである。
 師団の設置にともなって整備され、名称とともに現在も使用されているものに師団街道と軍道がある。京都駅と師団を結んで南北に走る師団街道は、当時としては珍しい二車線道路であった。

 石原は留守師団の師団長として昭和16年(1941)3月まで勤め、予備役となった。戦後石原は、東京裁判の法定に証人として立つことはあったものの戦犯に指名されることはなく、昭和24年に没した。
 墓地は山形県飽海郡遊佐町菅里字菅野《あくみぐん ゆざまち すがさと あざ すがの》にある。有志によって墓所内に建てられた石碑には「永久平和」の文字が刻まれている。

参考文献/青江舜二郎『石原莞爾』中公文庫、1992年

 

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飯田 則夫

いいだ のりお

昭和37(1962)年、茨城県生まれ。大学卒業後、システムエンジニア、編集プロダクション勤務などを経て、フリーランスライターとして独立。「予科練」など旧海軍航空隊が身近な環境で育ったことから、近代日本の足跡を知る歴史素材として、学生時代より旧軍史跡に興味を持ち、各地を探索してきた。

著書に『図説 日本の軍事遺跡』(ふくろうの本)、『TOKYO軍事遺跡』(交通新聞社)、『大日本帝国の戦争遺跡』(KKベストセラーズ)などがある。


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