知るとは、知らないを増やすこと【森博嗣】
森博嗣「静かに生きて考える」連載 第23回
新型コロナのパンデミック、グローバリズムの崩壊、ウクライナ戦争、安倍元総理の暗殺・・・何が起きても不思議ではない時代。だからこそ自分の足元から見つめなおしてみよう。耳を澄まし、よく観察してみること。森先生の日常は、私たちをはっとさせる思考の世界へと導いてくれます。「静かに生きて考える」連載第23回。
第23回 知るとは、知らないを増やすこと
【子供が楽しそうなのは何故か?】
子供は楽しそうに遊んでいる。実は、遊んでいるばかりでもない。あらゆることを学んでいる。学ぶこと、知ることが楽しい。見ているだけで楽しそうだ。大人になると、子供の頃の思い出としてわくわく感だけを鮮明に覚えていたりする。あの頃は、見るものすべてが面白かった、と微笑ましい。
子供が持っている子供らしさの一つは、「好奇心」だろう。何故、子供は知りたがるのだろうか? なにに対しても目を向け、じっと観察するその姿勢は、多くの大人が失ったものだ。
子供が、どんなものにも興味を抱くのは、なにも知らないからである。すなわち、「無知」という強みを持っている。知らないことがあるから、人間は知りたくなる。では、大人になって好奇心が減退するのは、どうしてなのか? 大人になると、子供のように楽しめなくなるのは、何故なのか?
大人になるまでに、いろいろなものを知ったから? 知り尽くしたからだろうか? ちょっと考えてみれば、そうではないことを誰もが認めるだろう。大した知識を持っているわけではない。勉強をしてあれもこれも覚えさせられたのに、すっかり忘れている。
沢山知ったから楽しくなれないのではない。これは断言できる。そうではなくて、「どうせ知っても大して面白くない」ことを知ったからだ。
知らないことを沢山教えてももらったけれど、どれも、自分自身の面白さにならなかった。楽しめなかった。学校で習った国語、算数、理科、社会のどれも、自分をわくわくさせてくれなかった。大人からいろいろ指導され、沢山の体験をしたわりに、期待したほど面白くない。そういうことを「知った」だけだったのだ。
そうなると、もうなにも知りたくない。べつに詳しく聞きたくない。自分は、酒を飲んで仲間と騒いでいる方が楽しい。人生それで充分。だから説教しないでくれ、難しい話をしないでくれ、そういうものには興味がない、と突っぱねるようになる。自分はもう子供ではない。大人になったのだ、といったところだろうか。
まあ、そういう人生もあるし、全然悪くはない。それで自分が本当に満足でき、すっきり納得ができているのなら、幸せなことだろう(皮肉ではない)。
【人や社会から離れて静かに暮らしていると……】
森の中でひっそりと暮らしていると、人間というもの、社会というものが逆にくっきりと見えてくる。どうしてなのか、わからない。不思議である。また、これまであまりなかったことだが、自分以外の存在が気になるときも、たまにある。
何故あれはあんなふうになっているのか、どうして大勢の人たちはそんなことをしているのか、と考える。作家として文章を書くために考えるのではなく、なんとなく、ぼんやりと、ただ「不思議な現象だなあ」と頭に浮かぶ。
考え出すと、だんだんと道理が見えてきて、真理のようなものへ近づく気がするけれど、それは単に、自分だけの解釈を求めているだけのことで、真理と呼べるような代物ではないはず。そして、謎が謎を呼ぶことになるから、考えるほど、解釈が深まるほど、もっとわからなくなってくる。
そういえば、研究でもこんなふうだった。探究するほど、謎が増える。知るほど、知らないことが増える。問題を解くたびに、もっと沢山の問題が湧き上がってくる。
わからないことを沢山抱えている状態は、けっして悪くない。むしろ、心躍る楽しさに満たされる。つまり、子供の頃の好奇心と同じなのだ。
大人になって、いろいろな知見に触れ、法則も方程式も覚え、解決方法も手に入れたのに、まだまだ新しい問題が生まれてくるのだから、なんというのか「永遠の泉」を見つけたような感覚になる。思わず笑ってしまうほど嬉しくなれる。元気になれる。
結局のところ、新しい謎に出会いたいから、謎を解くのかもしれない。知らないことを増やしたいから、手近なものを知ろうとするのである。
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