新保信長『食堂生まれ、外食育ち』【19品目】カニ・マイ・ラブ
【隔週連載】新保信長「食堂生まれ、外食育ち」19品目
同じ頃、当時働いていた歌舞伎町の出版社の近くにあった韓国料理屋で初めて食べたケジャン(生のワタリガニをタレに漬け込んだもの)も衝撃だった。生のカニを食べたのも初めてで、とろけるような食感に絡みつく旨味と辛味がたまらない。残念ながら、その店はもう閉店してしまったが、その後、ほかの店で食べるケジャンとは一味違った。
今や50代も後半となって、缶詰やカニカマではない、ちゃんとしたカニをたまに食える程度のお金の余裕はある。とはいえ季節限定ものだし、ふと「今日、カニ食べよ」と思いついて食べる感じではない。お店で食べるにしてもカニ旅行に行くにしても、何日も前から計画が必要だ。その特別感=非日常感もカニの魅力である。
近年で最高だったのは、赤坂にあるカニ料理専門店で食ったカニだ。大ぶりの立派な活けガニを目の前でさばいて、刺身、焼き、ゆでなど、それぞれ食べやすい状態で出してくれる。すべて板前さんがやってくれるので、必死でほじくったりしなくていい。殿様にでもなった気分で、ただ食べるだけである。もちろん味は文句なし。その分、お値段も殿様級だが、とある本の打ち上げで出版社のおごりだったので問題なし(のちに自腹でも行った)。
10年ほど前に妻と行った鳥取の温泉旅館もすごかった。ちょうど11月に仕事絡みのイベントが鳥取であって、「カニ解禁の季節じゃん!」というわけで、カニ自慢の宿を取ったのだ。鳥取空港(現・鳥取砂丘コナン空港)からレンタカーで到着した旅館は、外観が安っぽくてちょっと不安になったものの、部屋はきれい。肝心のカニは、さすが本場だけあって、とにかく新鮮でむっちりした身が詰まっている。欲張ってタグ付き松葉ガニをオプション追加したもんだから、夫婦無言でひたすらカニをむさぼり食うことになった。手や顔がカニくさくなっても気にしない。そのために温泉が併設されているのだから、いくらでもカニくさくなればいい。
そんなこんなで何年分かのカニを堪能し、温泉も気持ちよく、ぐっすり眠った翌朝のこと。チェックアウトを終えたところで、仲居さんが「こちら、おみやげにお持ちください」と何かを差し出す。もしやカニ!? と思ったが、そうではなかった。仲居さんが手にしていたのは、鉢植えの花。え…いや、こっちはこれから飛行機乗るんですけど……? 素直にその旨を告げて、「鉢植えはちょっと荷物になるので」とお断りしたのだが、そのときの仲居さんの悲しげな顔といったらなかった。今も思い出すくらい悲痛な面持ち。人の善意を無にしたようで大変申し訳ない。カニは大層うまかったが、鉢植えと仲居さんの表情が最後に全部持っていった旅として、強く記憶に残っている。
文:新保信長
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