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「真田城」のありか 城からわかる戦国武将の真実

現在観測 第26回

 

 この「武功」は真田の名を一躍世に高めた。いっぽうで精鋭を失った義清は、寄せ集めの兵で急遽旗本を再生する必要に迫られた。練度を高めている余裕はない。義清には精鋭たちの武具ばかりが残されていた。そこで義清は、決められたことを決められたとおり、合図にしたがって動く軍隊を即成する。ここで戦国初の兵種別に連動する軍隊が編成されたのである。

 さて、疑問に思うのは義清のことではない。義清の旗本が騙し討ちにされた「真田の城」のありかがどこなのか、皆目わからないのである。

 当時、幸綱の居城として一般に考えられるのは、
「真田山城」(別名、松尾城・松尾新城・十林寺城山。長野県上田市真田町長)
「松尾古城」(長野県上田市横沢日向)
「真田氏館」(長野県上田市真田町長)
 の三点とされている。

 真田山城は、築城年代不明。現地には碑があって「真田氏本城」と刻まれている。山頂からは義清の居城である砥石城を観望でき、両者の因縁をしのばせる。

 松尾古城は、真田山城がすぐ近くの松尾城の異名で呼ばれることから、「古城」とされているが、もとは松尾城と呼ばれていたという。足利時代における真田氏の菩提寺「當福院」の寺跡ともいわれているが、築城年代不明。もしここで村上氏の旗本を殲滅したとすれば、幸綱が先祖代々に向けて、「わが鬼謀ご照覧あれ」とする思いがあったのかもしれない。

 真田氏館は、近くに幸綱の墓所があり、幸綱築城とみられるが、年代はやはり不明である。なお、同名の館が真田町本原にもあるが、こちらは天正年間の遺跡とみられている。

 だが、いずれもこれといった決め手になる証拠に乏しく、当時の幸綱の居城自体、さして重要な課題ともされていないことから、「これが真田幸綱の居城だ」という特定は別になされていない。そこでわたしは考える。この謀略が可能だった城を探せば、それがすなわち幸綱の居城だったといえるのではないか。

 このいずれかの「曲輪」で「本丸」と「三の丸」からの攻撃により、義清の旗本五〇〇人が皆殺しにされた。真田方は「屈強の武士」相手に一兵も失わなかったというが、当時はマシンガンや爆弾といった便利な大量殺戮兵器が存在しなかった。そのうえ旗本たちも無抵抗であるはずがないから、真田方は接近戦武器ではなく弓や鉄炮を使って、完全なるアウトレンジで一人一人射殺したであろう。もし当時の情景が動画などに保存されていたとして、YouTubeにでもアップロードされれば、その凄惨さに世界中が肝を冷やすはずである。一度に全員を殺せたわけではないから、最後のほうになると生き残った数名がどのような形相で真田方に命を奪われたのか、思いを巡らせるだけで肌が粟立つ。

 幸綱は日本史上でも稀に見る暗い謀略を実行した。須野原兄弟に偽りの起請文を提出させ、五〇〇人の殺人を指揮した。その覚悟たるや戦国時代でも並大抵のことではあるまい。武田家中で真田氏が台頭した大きな理由は、この汚れ仕事を進んで成し遂げた覚悟にあるだろう。なお、城内に敵を誘い入れて殲滅する作戦は、第一次上田合戦でも幸綱の子・真田昌幸が使っている。受け継がれた鬼謀は、真田氏を一介の国衆から大名へと押し上げるのに、一役も二役も買ったであろう。

 さて、果たして幸綱は上記のような殲滅をどの城で行ったのだろうか。歴史ファンや城郭マニアの皆さんから見解をうかがいたい積年の謎だ。

 

真田信繁(幸村)の祖父にあたる真田幸隆は、のちの真田氏の礎を築いた人物。信濃の在地領主出身で、一度は所領を失うも、武田晴信に使えて回復、武田家の信濃先方衆として活躍。

 

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乃至 政彦

ないし まさひこ

1974年香川県高松市生まれ。戦国史研究家。専門は、長尾為景・上杉謙信・上杉景勝、陣立(中世日本の陣形と軍制)。著書に『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『戦国武将と男色』(洋泉社歴史新書y)、監修に『図解! 戦国の陣形』(洋泉社MOOK)、おもな論文に「戦国期における旗本陣立書の成立─[武田陣立書]の構成から─」(『武田氏研究』第53号)がある。



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