ノーベル化学賞 (2022) のベルトッツィ教授 その誕生の陰に名もなき伝説の名物数学教師がいた【渡辺由佳里】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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ノーベル化学賞 (2022) のベルトッツィ教授 その誕生の陰に名もなき伝説の名物数学教師がいた【渡辺由佳里】


2023年ノーベル賞の発表が続いている中だが、2022年ノーベル化学賞ではアメリカの有機化学者3人が選ばれた。その一人が、スタンフォード大学のキャロライン・ベルトッツィ教授(56)。研究成果は広い分野で活用され、がんの治療薬の開発などにも大きく貢献している。ベルトッツィ教授誕生の陰には、実は伝説の数学教師がいた。中学校で出会ったエヴァグリオ・モスカ先生がその人。エッセイストの渡辺由佳里さんは、自著『アメリカはいつも夢見ている』KKベストセラーズ)の「“名もなき英雄”たちは見えない場所で世界を変える」でモスカ先生を詳しく紹介している。必読の本文を抜粋して配信する。まさに“名もなき英雄”は世界を変えていたのだ。


キャロライン・ベルトッツィ教授(55)。選考にあたったスウェーデン王立科学アカデミーは授賞理由を「“クリックケミストリー”と生体直交化学の発展への貢献」とした。

 

 

「名もなき英雄」たちは、見えない場所で世界を変える

 

■なぜレキシントンの公立学校は「数学に強い」のか?

 

 私たちは、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズなどの有名人がまるで単独で世界を変えたかのように崇拝しがちだ。でも、彼らは名もなき多くの人に支えられて成功したのだ。大きな貢献をしたのに名前を知られず、崇拝も称賛もされることがない人々は「名もなき英雄」だ。名もなき英雄は世界のあらゆる場所にいて、静かに社会を良くする偉業を成している。私が20年ほど前に出会った2人の数学教師もそんな名もなき英雄だった。

 私たち家族が夫のデイヴィッドの仕事でアメリカのボストン近郊に移り住むことになったのは1995年末のことだった。「日米ミックスの子どもが学校で差別をされない環境」という私たちのリクエストで不動産エージェントが推薦したのがレキシントン町だった。村上春樹の『レキシントンの幽霊』(文藝春秋)に出てくる町であり、「独立戦争が始まった町」としても知られている。「優れた公立学校システムがある」とも聞いていたが、娘がまだ3歳だったこともあり、あまり詳しくは調査しなかった。インターネットが普及する前で調べにくかったこともある。

 わが娘が小学校に入学した頃からレキシントンの公立学校が「数学に強い」という評判を耳にするようになった。町の公立学校システムには6つの小学校、2つの中学校、1つの普通高校があり、この町に住んでいる子どもであれば誰でも入試なしで入学できる。私が取材した2004年の時点でレキシントン高校は国際数学オリンピック大会の金メダリストと銀メダリストを生み出しており、全米数学オリンピックの予選通過者の累積数では普通高校で全米トップだった。大学進学のための標準テストSATの平均点でも有名私立校を超えるスコアを出しており、その評判を耳にしたアジア系移民の親が子育てのためにわざわざこの町に住み着くようになっていた。

 私の娘が通った小学校にはまったく特別な数学教育はなく、むしろアジア諸国より遅れているような印象だったが、町に2つある中学校のひとつ「ダイヤモンド中学校」に進学したとたん状況ががらりと変わった。ひとつの特徴は、小学校の数学の成績を元にした能力別のクラス分けだった(2021年現在はシステムが変わっている)。

 また、ダイヤモンド中学校では6年生から8年生(中学1年生から3年生)まで生徒全員が「マスカウンツ(Mathcounts注注)」という数学競技に参加することになっていた。マスカウンツとは、当時全米で最も有名な中学生を対象にした数学競技だ。チャプター(地方)大会のトップ4人が州大会に出場し、州大会のトップ4人が州の代表チームとして他の州の代表者と競う。全国大会になると中継もあり、優勝チームと個人優勝者は大統領からホワイトハウスに招待され、テレビ番組に招かれたりもした。

 

 ■数学部門を徹底的に改革した無名教師たち

 

 ふつうの中学校では、日本の部活のような「数学チーム」がチャプター大会に出場する。だが、ダイヤモンド中学校では、全校生徒の中から代表者を選ぶのだ。最初のラウンドは筆記テストなのでさほど面白くはない。だが、次のステップの「カウントダウン・ラウンド」はまるでゲームショーだ。

 筆記テストで(当時は全校生徒約800人)のトップ16位に残った者が、全校生徒の前で1対1の早押し(ダイヤモンド中学では挙手)数学クイズに挑戦する。小規模の演劇ホールのような形の講堂のステージに16人が並び、まず16位と15位が対戦する。その対戦で生き残ったものが14位と、その勝者が13位と対戦し、次第に上位での争いになっていくので「カウントダウン・ラウンド」と呼ばれている。

 司会は数学教師のエヴァグリオ・モスカ先生だ。生徒たちをクイズ番組の出場者のように楽しく紹介し、カウントダウンの緊張と興奮で場を盛り上げていく。数学クイズのテストで選ばれなかった生徒たちも観客席からクラスメイトを大声で応援する。会場は熱気に包まれ、本物のゲームショーのような雰囲気になっていく。

 取材した2004年当時、このイベントを全校レベルでやっていたのはダイヤモンド中学だけで、町のもうひとつのクラーク中学は数学チームが地方大会へメンバーを出していた。なぜダイヤモンド中学だけに特別な行事があるのか不思議だったので、司会をしていた数学チームの指導者モスカ先生に話を聞いてみることにした。

 ダイヤモンド中学で恒例行事になっていた数学競技を始めたのは、モスカ先生だった。子どもの頃から教師になることを夢見ていたモスカ先生が新米教師としてダイヤモンド中学校に就職したのは1970年代のことだった。

 ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学など多くの大学があるマサチューセッツ州は公教育でも全米のトップにランクされている。だが、そのマサチューセッツでも当時の公教育は混沌としていた。1960年から70年代にかけてのアメリカの教育の場は、良い意味では「なにかできるか、やってみようじゃないか」という活気に満ちた時代であり、悪い意味では無秩序だった。

 当時のダイヤモンド中学には活気はなく、ただ混沌としていただけだった。州どころか町で統一された数学カリキュラムもなかった。新人教師のモスカ先生に対する学校側の態度は、「教師なら、教え方は知っているだろう」という徹底した放任主義で、トレーニングもなしにいきなりレベルが異なる5つのクラスを受け持たせた。そのうえ、誰も面倒をみたくない数学チームも押し付けた。

 ふてくされて適当に仕事を片付ける選択もあっただろうが、モスカ先生はこの無秩序状態を「かえって数学部門を徹底的に改革するチャンスだ」と思い、チャレンジの興奮を覚えたという。そして、周到に改革計画を立て始めた。根気よく時間をかけて校長に自分の目標を語り、なるべく多くの優れた数学教師を雇用してもらうよう交渉した。生徒の学習能力と速度が異なるためにどの生徒もやる気をなくすことに気づき、それぞれの速度に合わせたレベルに分けて教える方法を導入することも提案した。

 モスカ先生が提案したのは、6年生(中学1年生)を2レベルに分け、7年生では学習速度が特に速い者のために一番上のレベルを導入し、8年生で全員を3レベルに分けるというアイディアだった。レベル分けすると、教える速度を調整でき、教師はターゲットを絞って説明することができる。数学が得意な生徒は退屈しなくなり、数学が苦手な生徒が取り残されることも減る。モスカ先生が導入した数学の「学習能力別クラス」は、その後クラーク中学でも取り入れられ、小学校と高校とも連係して、優れた数学の能力がある生徒が数学のみ飛び級できるシステムに発展した。 

次のページ多くの生徒を情熱的な数学ファンにした伝説の教師

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渡辺 由佳里

わたなべ ゆかり

エッセイスト、洋書レビュアー、翻訳家。助産師、日本語学校のコーディネーター、外資系企業のプロダクトマネージャーなどを経て、1995年よりアメリカ在住。ニューズウィーク日本版に「ベストセラーからアメリカを読む」、ほかにCakes、FINDERSなどでアメリカの文化や政治経済に関するエッセイを長期にわたり連載している。また自身でブログ「洋書ファンクラブ」を主幹。年間200冊以上読破する洋書の中からこれはというものを読者に向けて発信し、多くの出版関係者が選書の参考にするほど高い評価を得ている。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。著書に『ジャンル別 洋書ベスト500』(コスモピア)、『どうせなら、楽しく生きよう』(飛鳥新社)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)、『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)などがある。翻訳には、糸井重里氏監修の『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社)、マリア・V スナイダー『毒見師イレーナ』(ハーパーコリンズ)、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)など。

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