新保信長『食堂生まれ、外食育ち』【10品目】出したいものしか出さない店
【隔週連載】新保信長「食堂生まれ、外食育ち」10品目
メニューには一応いろいろ書いてあるものの、何を注文しても「こっちのほうがいいわよ」と、女将の出したいものを出すスタイル。「勝手に注文してくれりゃあ、できるもんなら作るよ」というマンガ『深夜食堂』(作:安倍夜郎)のマスターとは正反対だ。店主一人で切り盛りしているような店でメニューなしで基本お任せというのはときどきあるが、メニューがあるのにまったく注文を聞いてもらえない店というのは珍しいのではないか。
最初は面食らったが、だんだんちょっと面白くなってきた。牛スジ、サラダ、シシャモ、だし巻き玉子あたりを食べただろうか。と、そこに新たな客がご来店。この店にはあまり似つかわしくない若いカップルだ。おっかなびっくりの態度からして、うっかり迷い込んできたものと思われる。普通の物販店と違って飲食店の場合、一度扉を開けて足を踏み入れたら、なかなか引き返すのは難しい。ましてや、女将に「いらっしゃーい。あーら、お若い方、ハイ、そこ座って座ってー」と言われたら、拒否権発動はできない。
席に着き、とりあえずビールを頼んだ2人に、「お腹空いてる?」と女将が聞く。男の子が「ええ、まあ……」と答えると、「今日はね、牛スジがおいしいのよ~」って、あくまで牛スジ推しなのか。「あ、じゃあそれで」と言う男の子に追い討ちをかけるように「あと、お野菜も食べなきゃ。ルッコラのいいのが入ってるの」って、それセロリでしたよね?
思わず飲んでた焼酎ロックを噴きそうになったが、とにかくそんな調子で主導権を握り続ける女将。我々夫婦にとっては面白ネタになったからいいようなものの、若いカップルには試練だったかもしれない。とはいえ、慣れてしまえば女将のリードに身をゆだねるのも楽しいのだろう。ネットの口コミを見てみたら、「気さくな女将の接客」が好評だった。我々とカップルのほかにカウンターの端っこで飲んでる常連風のおじさんがいたが、女将とちょこちょこ会話しながらゴキゲンで飲んでいた。
それにしても気になるのはあのカップルのその後である。我々は先に帰ってしまったが、あれからどうなったのか。デートで選ぶような店じゃないし、そもそもなぜあの店に入ってしまったのか。近隣のオシャレ店に予約なしで行って満席で入れなかったとか? だとしたら、あまりにも痛恨。ここぞという場面では、やはり予約したほうがいいと思います。
文:新保信長
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