「なぜ学級崩壊は止まらないのか?」今でも信じられないある出来事とは【西岡正樹】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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「なぜ学級崩壊は止まらないのか?」今でも信じられないある出来事とは【西岡正樹】

「学校の当たり前」を取り戻すために・・・身体を通して伝えること

※小学校入学式のイメージ

■入学式開催直前、演壇の前に飛び出て我が子を撮り始めた親に唖然

 

 また同時期に、「みんな感」の喪失が、親の行動の中にも明らかに現れてくるようになった。

 ある年の入学式が始まる直前のこと、子どもたちの多くが着席しているにもかかわらず、演壇の前まで出ていき、整列しているわが子の写真を前から撮ろうとしている親がいたのだ。その姿を見た時には、「そんなことがあるはずがない」と思っているから、

「あれ、今日カメラマン入れたっけ?」

 周りの教師に声をかけてしまったほどだ。まさかその人物が保護者であるとは・・・気が付くまでにしばらく時間がかかった。

 

 また、こんなこともあった。それは運動会でのこと。

 ある学年の演技中に、本部のテントに入り込み、校長先生の横で自分の子どもの写真を撮っている保護者がいたのだ。その姿を見た時には、開いた口がふさがらないというのはこのことか、という心境だった。

 昨今、子どもの教育においての第一優先は「家庭教育」であり「学校教育」ではなくなっている。このことに関しては当然のことだという思いはある。その半面、家庭教育を第一優先とする「プライベート感」(自分意識)を大切にするのであれば、その分だけ「パブリック感」(他者意識)の大切さも親は家庭で子どもに伝えていかなければならないのではないだろうか、と思うのだ。

 周りの状況を見て判断することなく自分のやりたいことを優先してしまう親や大人の姿を見ている子どもに「パブリック感」(他者意識)など育つはずがない。つまり、「学校はみんなで学ぶところ」という意識が育たないまま、子どもたちは学校生活に入り、日々を過ごすことになる。「学校はみんなで学ぶところ」という意識を育てるのは、学校だけの役割ではない。再び、家庭も「学校はみんなで学ぶところ」という意識を育てるために大きな役割を担わなければなければならないのではないだろうか。

 

■「子どもは親や教師や周囲の大人を見て育つ」は当たり前

 

 次の大きな壁は、「自分の思いや考えを他者に伝える」ということだ。

 この壁はとても高い。なぜなら、この壁は、子どもの課題というよりも日本人そのものの課題だからだ。私自身も10歳まで人前で話をすることができなかった。いわゆる内弁慶であり、対人恐怖症、さらに言えば、赤面症だった。自分では感受性が強く、いろいろな思いを持っている子どもであったと思うが、その思いを言語化(話し言葉、書き言葉に)することができず、自分の考えを持つまでには至らないのが、常だった。そのため、教師になってからも、話ができない子どもの気持ちもわかるし、またそれは環境で克服できる課題であることも理解している。

 

 私自身、世界中を旅しながら感じたことがある。それは、国や地域によって人と人との距離感が違うということだ。その距離感によって身体的な関わり方や言葉の使い方が異なることもわかった。私自身の実感としてあるのは、西ヨーロッパから東に向かって進めば進むほど、人と人の距離が近くなり、言葉が少なくなってくる。特に西ヨーロッパや北米の人たちは、自分の距離感を大切にするが、同時に他者の距離感も大切にする人が多い。だから、近づきすぎて相手に不快な思いをさせてしまいそうな時には必ず「Sorry」「Excuse me」などの言葉を掛け合っている。

 ヨーロッパからアジア圏に入ると人と人の距離感が一気に近くなる。人と人が接触しても、軽い接触であればほとんど言葉は掛けない。極端な言い方をすれば人と人が重なり合って生活しているように感じた。多くの体験の中でインドでの体験は、けっして忘れることができない。ゴアへ行くためにムンバイで電車のチケットを買ったのだが、前の人と重なり合って並んでいないとすぐに横から他人が入ってきてしまうのだ。カウンターの直近まで迫った時には、私の顔は前の人の肩の上にあった。その間、お互いに言葉を掛け合うことは全くなかった。

 

 では、日本はどうなのか?

 人と人との距離感も遠いようで近いし、近いようで遠い。また相手との距離を大事にしているようで、人と人との距離がぐっと近づいた時でも、言葉がけはほとんどないのが、現状だ。私が旅から帰ってきた直後や学校で子どもや保護者と関わっているときに感じることは、日本は欧米的な成熟した個人主義でもなければ、アジア的な一人ひとりの距離感がとても近い所でもない中途半端な状況にある。それは、前述した「プライベート感」と「パブリック感」が曖昧であるという現象面にも現れている。

 この曖昧さは、学校の子どもたちの様子を見ていると、自分の思いや考えを伝え合うどころか、「私たち日本人は伝え合う言葉を失いかけているのではないか」という思いに繋がった。それは、子どもたちの次のような動きに顕著に見られる。

 

*挨拶の指導をしなければ自分から挨拶する子どもが少ない

*挨拶されても返せない子が増えている

*自分の思いを問われても応えることができない

*自分から友だちを誘えない子が増えている

*名前を呼ばれても返事をしない(多くの場合教師も求めない)

*単語で会話する

*数人で遊んでいても、それぞれがゲーム(オンラインも含)をやっているので会話がない

 

 その傾向は、子どもだけではなく家族の行動を見ていても、同じように「言葉が失われていく」現状が散見される。

 授業参観や学習参加などの行事に夫婦で参加する家庭が多くなってきたが、授業の始まる前に入り口付近にいると「こんにちは、よろしくお願いします」と言葉をかけながら入ってくるのは必ず母親である。こういう状態で父親が先に挨拶したり、言葉をかけてきたりすることはまずない。では、後から・・・いや、いや、それもないのである。後からでも父親が挨拶することや言葉がけすることは、ほとんどないのが現状だ。教室には子どもたちもいる。子どもたちは両親と先生の様子を見ているのだ。

 また、家族がファミリーレストランで食事をしている光景をよく目にするのだが、ほとんどの家族は、座るや否やそれぞれが自分の携帯電話を見始め、注文した料理が来るまでほとんど言葉を交わすことがない。また、そのような光景は珍しいことではなく、日常的な光景だと誰もが理解している。

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西岡正樹

にしおか まさき

小学校教師

1976年立教大学卒、1977年玉川大学通信教育過程修了。1977年より2001年3月まで24年間、茅ヶ崎市内の小学校に教諭として勤務。退職後、2001年から世界バイク旅を始める。現在まで、世界65カ国約16万km走破。また、2022年3月まで国内滞在時、臨時教員として茅ヶ崎市内公立小学校に勤務する。
「旅を終えるといつも感じることは、自分がいかに逞しくないか、ということ。そして、いかに日常が大切か、ということだ。旅は教師としての自分も成長させていることを、実践を通して感じている」。
著書に『世界は僕の教室』(ノベル倶楽部)がある。

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