自らの愚行により妻と息子を失った家康

 

築山殿の非難を恐れたからか(家康の母・於大の方の命令ともいうが)、
家康のいる岡崎城に彼女は入ることができなくなり、その後も別居が続きます。

それでも築山殿は家康を信じ、待ち続けてました。彼女の実像は、嫉妬する女ではなく、夫を信じて待ち続け、裏切られた女として語り継がれるべきなのではないでしょうか。

ほぼ絶縁状態の家康との間をかろうじて結んでいたのが、築山殿の侍女・於万の方の存在でした。しかし家康はあろうことか、その於万と肉体関係を結んでいたのです。

あるとき、築山殿は於万が妊娠していることに気づきます。しかも、それは彼女夫・家康のと知るや、長期間の不遇に不満を募らせていた築山殿はついにブチ切れ、於万を全裸にしてつるし上げ、折檻を加えたとか、全裸の於万を柿の木に縛り付けたまま放置していたとか、居場所を失った於万が館を出た後も刺客を放って殺そうとさえしたといわれています。

於万は、家康の家臣・本多作左衛門(重次)に匿われ、密かに男児を出産します。彼が後の結城秀康です。於万の方は当時26歳で、戦国時代の感覚では(家康好みの)立派な熟女でした。

しかし、これらが万一、すべて事実でも築山殿の「嫉妬深さ」より、家康の行為のほうが、愚行として責められるべきではないでしょうか? 家康のいる城にも入れてもらえない築山殿の不満が溜まっている中で、彼女に仕える侍女を孕はらませるのは明らかに正しい選択ではないと思われます。

その後、自分の勢力を巻き返すために築山殿は一計を巡らせます。彼女の宿敵である織田家から来た嫁の徳姫への寵愛を薄れさせるために、息子の信康に、武田家の家臣の姫を迎えて側室とした。信康は新しい側室に夢中になるが、これにキレた徳姫に12か条にもわたる、信長へのチクリ文書を書かれてしまいます。

「信康が武田家と結んで家康を殺し、織田家にも謀反を考えている」だの「築山殿が中国人医師と不倫関係にある」という内容に激怒した信長に詫びを入れるために、家康は築山殿はおろか、大事な嫡男・信康を処刑せざるを得なくなってしまったのです。

この事件を取り繕うため、「信康については性格が異常だった」というような弁解が徳川サイドの歴史には残されています。

その一方で、家康は徳姫の住む岡崎の城下町に、築山殿の首を晒さらし(そこまで信長からは命令されていない)、「お前のチクリのせいでこうなった」という精一杯の反抗の気持ちを伝えようとしたのではないか、という逸話も同時に残されています。

家康は於万への寵愛が薄れ去ると、息子の秀康と長年会おうとせず、不自然なまでの冷遇を続けます。そこには築山殿への裏切りから始まり、嫡男を失うに至った苦い記憶があったからかもしれません。