人間は「性的な存在」である。公の場では語られないそこに、救いがあるとしたら…【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の教え 第18回
人を傷つけてはいけないのかがわからない少年。自傷行為がやめられない少年。いつも流し台の狭い縁に“止まっている”おじさん。50年以上入院しているおじさん。「うるさいから」と薬を投与されて眠る青年。泥のようなコーヒー。監視される中で浴びるシャワー。葛藤する看護師。向き合ってくれた主治医。「あなたはありのままでいいんですよ」と語ってきた牧師がありのまま生きられない人たちと過ごした閉鎖病棟での2ヶ月を綴った著書『牧師、閉鎖病棟に入る。』が話題の著者・沼田和也氏。沼田牧師がいる小さな教会にやってくる人たちはどんな悩みをもっているのだろうか? 「人を癒し支えるのは人である。助け合うのも人同士である。だが、公の場でこのように語られるとき、性的なものは語られない。だが人間は性的な存在でもある。性器で交合するセックスだけを言っているのではない。手をつないだり肌をくっつけたりすることは、傷つけられれば命取りになるような部分をお互いが曝しあうことだ。そのような関係を結ぶには不安や焦燥もつきまとうであろう。しかし、いかなる福祉も、そして教会さえも、提供することのできないものがそこにある。」と語る沼田牧師の真意とはなんだろうか?
人間にとって、性的なものはすべてとは言えないにせよ、無視できないものである。しかし公の場でそれを語ることは、とても難しいし、勇気も要る。教会で「わたしは罪を犯しました」とは言っても、「わたしはこっそり女性の部屋を覗きました」とは言わない。じっさいにそれをしてしまった人たちがいたとして、たぶんそのほとんどが言えないだろう、教会でさえ。「罪を犯す」にも、格好良い罪と格好悪い罪があるわけだ。涙さそう文学的な罪と、嫌悪をもよおす醜悪な罪が。
先日観た、ある「性的な」映画の字幕に、以下の聖書の言葉が出てきた。
“しかし、もしあなたがあなたの神、主の声に聞き従わず、私があなたに今日命じる戒めと掟のすべてを守り行わないならば、これらのすべての呪いがあなたに臨み、あなたに及ぶ。あなたは町にいても呪われ、野にいても呪われる。あなたの籠もこね鉢も呪われる。
”申命記28章 聖書協会共同訳
新共同訳聖書の同じ個所を見たが、字幕の語順とはだいぶ雰囲気が違っていたので、字幕翻訳者は2018年に刊行された聖書協会共同訳を参照したのだと思われる。
その映画とはムン・シング監督による『赤い原罪』。監督が牧師の資格も持っているという惹句に釣られ、どんなジャンルの映画なのかも知らないまま観に行った。結果的には、自分が最近うすうす感じていたことを、ずばり言い当てられたような作品であった。
白髪の女性が40年前を振りかえる。韓国のどこかの漁村だろう。米軍の基地も近くにあるらしい。若い彼女は信仰的使命に献身するシスターとして、その街に赴任する。この街に来る道中のバスで、彼女はある男と出遭う。その男は、彼女が着任する教会の教会員であった。男には中学生になる娘がいる。彼は足が不自由で働くことができない、そして働く気力もない。そのため娘は学校に行かず、漁港で荷役などの重労働をしては父親に金を渡している。彼女はてんかんと思われる痙攣発作が起こることを恥ずかしいと思っており、発作のたびに転職する。
シスターはこの父娘を救おうとする。具体的には、彼女なりに医療や福祉に繋げようとする。ところが父も娘も教会からの支援を拒絶する。そして、この男がことあるごとに自己言及するのが、最初に引用した聖書の言葉なのである。彼は自分が神から呪われた者であると感じている。貧困のなかで米兵相手に売春していた彼の妻は、兵士と駆け落ちしてしまったのだ。それ以来、男は性的に屈折したものを抱えている。娘は献身的に父親を支えるのだが、シスターはある日、彼女が父親の性処理を手伝っているのを目撃してしまう。いっぽうで男は自己を呪いながら、シスターを性的な目で見るようになり、つきまとう。
シスターは葛藤する。信仰において自らを聖域に置いたまま、父娘を「憐れんで」いることは、神の御旨にかなっているのだろうかと。そこで彼女はある決断をするのだが、そこはぜひ一人でも多くの方に本作を観てもらいたいところである。