■世界の意味不明な多様性と複雑さを直視し受け容れること

 もし、私が、この種の施設の職員だとしたら、殺害するほどの関心は入居者たちに持たなかったろう。仕事として介護はするけれども、入居者の非力な状態に対しては、あくまでも自分ではない他人の状態として、気の毒に思いはしても、心をこめて介護はしても、時に面倒くさいと思いはしても、基本的には自分とは別の他人に仕事だから接するというスタンスであったろう。

 ところが、植松は、明白な殺意を持って実行するほどに、入所者の知的障害者に対して特別な思いを持っていた。これは仕事以上の関心だ。わざわざ殺害するほどのエネルギーを注ぐほどに非常に深い関心を持っていた。植松は、その関心のあまりに彼らや彼女たちを殺害した。

 どうして、このような負の関心を植松は持っていたのか? 植松は、知的障害者の存在に自分自身が脅かされていると切実に感じていたのではないか。正確に言えば、知的障害者の存在そのものが彼の中に喚起した恐怖や不安から逃れたかったのではないか。

 おそらく、植松に共感する匿名のネット言論界人も、知的障害者の存在そのものが喚起する恐怖や不安を植松と共有していたに違いない。

 その恐怖や不安とは、ずばり、この世界の意味不明さに対するものだ。

 植松は、「自然、世界、この世というものは複雑で多様なものなので、人間の目から見ればデタラメであり無茶苦茶に見えるのは当然であり、人間存在を含むすべての生き物は自然が産むバグであるのだから、どんな生き物も存在して当然であり、これは存在していいが、あれは存在してはいけないなどと人間が決めることはできない」という事実を受け容れることができなかったのだ。

 そういう世界を認めることは怖いことだ。そんな世界には、自分が拠って立つところのものなど実は存在しないのだから。掟も基準も法も理も人為的なものでしかないのだから。

 植松がこだわったような類の合理性で、この世界のもろもろを判断したら、この世界のほとんどを否定しなければならなくなる。意味不明な理不尽なことのほうが圧倒的に多いのだから。

 また、この世に生きる人々のほとんどを否定しなければならなくなる。意味不明で理不尽な人々のほうが圧倒的に多いのだから。ついでに、自分自身をも否定しなければならなくなる。自分自身だって、合理的になど生きていないのだから。意味不明に愚か極まりないのだから。

 植松は、おそらく、この社会の不合理さとともに、自分自身の不合理さに非常に傷ついていたのではないか。だからこそ、あたかも不合理性が受肉化しているように見える知的障害者に、この理不尽な世界への恐怖と憎しみを重ねていたのではないか。同時に不合理にしか生きることができない自分自身への憎しみや哀しさをも重ねていたのではないか。つまり、知的障害者の中に自分を見ていたのではないか。

 これは、どうみても幼稚なガキの「やつあたり」だ。自分の恐怖と不安から逃げるために他人を殺傷したのだから。

 彼が、自分の不安と恐怖を分析できる能力を持っていたら、この世界の意味不明な複雑性と多様性を直視し、認め、受け容れる徹底的に深い知性を持っていたら、あのような事件は犯さなかったろう。まだ、世間並みな鈍感な人間であるほうが良かった。合理性信仰に騙されるような類の中途半端な知性は、ろくなことがない。

■無茶苦茶な世界の奥にある摂理を信じるしかない

 では、鈍感ではなく、そこそこの知性ある人間が、この世界の意味不明な複雑性と多様性を直視し、認め、受け容れるようになるには、どうしたらいいのだろうか?

 そのためには、おそらく、無茶苦茶でデタラメな世界の表層の奥にある、目には見えない大きな摂理を信じるしかないだろう。私は宗教のことを言っているのではない。神が存在しようが存在しなかろうが、どうでもいい。人間の信じるという意志が大事なのだ。

 無茶苦茶でデタラメな世界の表層の奥にある、目には見えない大きな摂理を信じることは難しい。証明するものなどないのだから。これは、世界に対する根拠なき信頼なのだから。そのような信頼の持ち主は、今は馬鹿と分類される。

 しかし、あえて馬鹿でいよう。無茶苦茶でデタラメな世界の表層の奥にある、目には見えない大きな摂理を信じること=世界に対する根拠なき信頼を持つしかない。

 でなければ、人間は、自分自身が世界に抱く恐怖や不安を直視できず、そこから逃げるために浅はかで短絡的な視野の狭い合理性に固執して、ついには合理性を錦の御旗にして、取り返しのつかない悲劇を引き起こしてしまいかねないから。