■想像以上に深刻な「大和」に、米軍の進行は待ったなし

左舷に向けて仰角5度、主砲一斉射、後部第三主砲一斉射と思われる。「武蔵」主砲発砲時、凄まじい砲煙が噴出、海面が沸き立つ、世界最大の艦載砲発射の歴史的瞬間である。後方より撮影された艦影の頂点は43mである。昭和17年7月26日 (日曜日)晴れ、竣工後1576日目、伊予灘で実戦さながらの試運転第2次第3回出動で実施され、46糎砲が発射された(永橋爲茂さんの遺族提供)

「大和」は年が明けると直ちに呉へ帰投した。工廠の第四号船渠に入渠し、被雷損傷部分の修理と対空火器の強化が行われた。中部両舷に装備していた15.5センチ3連装副砲が撤去されたのはこの時である。

「大和」艦長は、三代目大野竹二少将から四代目森下信衞大佐に交替した。

 4月21日、改装修理成った「大和」は、フィリピンの第三南遣艦隊への軍需品輸送を兼ね、スマトラ島南東方のリンガ泊地に向けて出港した。「大和」は5月1日、重巡「摩耶」と共にリンガ泊地に到着している。その3日後、本艦は1年3カ月振りに第一戦隊の旗艦に返り咲いた

 その頃豊田副武大将連合艦隊司令長官に任命され、東京湾上の軽巡「大定」に将旗を掲げていた。

 5月11日「大和」は、「金剛」「榛名」と共に「あ」号作戦待機の目的でスールー海のタウイタウイ泊地に前進基地を移すため出港している。同泊地には、新鋭空母「大鳳」を含む機動部隊が集結中だった。

「大和」「武蔵」は、泊地内で射撃訓練を行った。駆逐艦を目標として35,000メートルの偏弾斉射が46センチ砲1門あたり各2発を使用して実施された。翌日の射撃研究会では、一斉打方の着弾の散布界(さんぷかい・ある一点を狙って射撃した際に、弾丸がバラまかれる範囲。 一般にこの範囲が狭いほど集弾率が高く、命中率も上がるので良いとされる)が問題となっている。「大和」の散布界は800メートル、「武蔵」においては2,000メートルというものだった。自慢の主砲も、目標に命中しなければ何にもならない。

 もし、この状態で米艦隊との決戦が行われたなら、と考えると深刻な状況だった。

 こうした不安の中、5月28日突然米軍がビアク島に上陸した、との報が飛び込んで来た。敵はサイパン攻略の足掛りとして、ビアク島に飛行機の中継基地建設の目的を持っていたのである。