【明智光秀ゆかりの京都 丹波・丹後 ―戦乱の中の四人の絆】 | BEST T!MESコラム

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明智光秀ゆかりの京都 丹波・丹後 ―戦乱の中の四人の絆

明智光秀がゆかり深い京都の丹波・丹後地方を巡る[PR]

◆戦国屈指の知将にして、領民に慕われた明智光秀と丹波の関わり

丹波攻略を一任されて

光秀が築いた二つの名城

 尾張(おわり)・美濃(みの)・近江(おうみ)を制し、天下統一をめざした織田信長にとって、畿内制圧は急務だった。とくに京都の北西の出入口にあたる丹波は畿内を支配するには欠かせない重要な地、その攻略を任されたのが明智光秀だ。

 光秀は天正3年(1575)より丹波攻略を開始、赤井直正(あかいなおまさ)や波多野秀治ら地元勢力と激戦し、4年の歳月をかけてこれを平定する。

 光秀はこの平定戦のなかで、丹波にいくつも拠点を築いた。そのひとつが天正5年ごろに建てた丹波亀山城(亀岡市)である。保津(ほづ)川と沼地を北に望む小高い丘(荒塚山)に築き、丹波攻略および統治の拠点とした。その後、信長から丹波一国を拝領し、本格的な城下町の整備や領国経営を行なうが、それから間もない天正10年に「本能寺の変」を起こす。当夜、信長討伐の兵を出したのも丹波亀山城からであった。丹波亀山城の敷地は、現在は宗教法人・大本が管理しており、受付で見学を申し込めば見学可能で、内堀や本丸付近の石垣を見て歩ける。当時の建物こそ何も残っていないが、苔(む)した大規模な石垣群が乱世の爪跡を雄弁に物語る。

亀岡市・丹波亀山城跡

光秀が心血を注いで築き、本能寺の変の前夜まで居住していた城である。

 光秀が丹波に築いたもうひとつの大きな拠点が、天正7年の丹波平定後に築いた福知山城(福知山市)である。光秀はこの地を丹後攻略の足がかりとし、城代に養子の明智秀満(ひでみつ)を置いた。当初、横山城と呼ばれたが、光秀は明智の名前をとって「福智山」と改め、今も字が「知」と変わるも地名として残る。城は高台にあり、昭和61年(1986)に復元された3層4階の天守閣が街を見下ろす。石垣には五輪塔など寺社で用いられる石材が使われており、転用石と呼ばれ、当時の面影を間近に見ることができる。

福知山市・御霊神社

福知山城下にある光秀公を祭神とする神社で、家中軍法など明智光秀関係文書が保存されている。

天王山の大一番

山崎合戦の舞台へ

 本能寺の変後、光秀は羽柴秀吉との決戦「山崎の戦い」に臨む。その激戦の舞台が、大阪府との県境にある乙訓(おとくん)郡大山崎(おおやまざき)町・長岡京市の一帯である。明智軍と羽柴軍が奪い合った天王山が、かつての激戦地を見守るかのようにそびえている。標高約270mの天王山はハイキングコースにもなっていて、青木葉谷展望台、旗立松展望台からの眺望は格別だ。

大山崎町・山崎合戦古戦場跡

本能寺の変後、明智軍と羽柴軍が激突した古戦場。阪急大山崎駅前に歴史資料館もある。

 大山崎町から京都市方面に隣接した長岡京市にあるのが勝竜寺(しょうりゅうじ)城公園。元亀2年(1571年)、細川幽斎が信長から与えられた城であったが、幽斎は丹後へ移封となった。その後、本能寺の変(1582年)を経て、山崎の戦いに敗れた光秀がこの勝龍寺城に入り、態勢を立て直そうとした。

長岡京市・勝龍寺城土塁・空堀跡

複雑な構造の土塁と空堀により、敵が容易に城内に入れない仕組みになっている。

 しかし戦局不利とみて、近江・坂本城へと落ち延びようとするが、途中で落命するのである。これまであまり知られてこなかった光秀の足跡を辿り、京都府にある光秀ゆかりの各地をこの機会に訪れてみたい。

亀岡市・谷性寺(別名・光秀寺)

光秀の首塚があり、命日にあたる6月14日、5月の光秀まつりでは法要が行われる。

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『歴史人 2020年2月号』

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