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丹波でめぐる明智光秀ゆかりの地⑫福知山城の壱

季節と時節でつづる戦国おりおり第488回

福知山市役所から見た福知山城。高石垣の上の、右が大天守、左が小天守です

明智光秀を苦しめた波多野秀治の故地を堪能したあとは、一路北へ進路をとれ。舞鶴若狭自動車道を30分あまり走り、福知山I.C.を降りて一般道を西へ。福知山の市街地に入ります。車に乗っていても、市内の土地の凹凸高低がはっきりしているのが分かりますね。
最寄りの福知山城公園観光駐車場が大河ドラマの影響でズラーッと順番待ちの車列ができていたので、「これじゃ夕方になっちまうぜ」とスルー。他の有料パーキングに留めさせていただきました。

この城は明智光秀が奥丹波経営のために亀山城から北西へ60キロあまりグイーッと歩を進めて築いた丘城です。旧名を横山城といったこの城を天正7年(1577)に制圧した光秀は、家臣の藤木権兵衛を城代にすえて城の改修にあたらせ、わずか1年で近世城郭に生まれ変わらせました。藤木権兵衛というのは、江戸時代京で朝廷の御用を務めていた指物師にその名があるので、あるいはその源流にあたる人物で、大工の棟梁のような職能を持つ男だったのかも知れません。であれば、短い工期で見事な城を築いたのも頷けますね。
 ちなみに、この城は江戸時代に有馬氏を城主として迎えて完成し、筆者が立っている市役所のある場所はかつて三の丸(伯耆丸)の北側にあった侍屋敷地の跡で、前の道路は内堀跡です。昔なら水底だったところを歩いているわけで、なんだか妙な気分。

丘を登って本丸の天守へ。大天守は外観3層内部4階で、小天守の2層と大天守の下部2層が下見板張となっていて良い感じにクラシカルな雰囲気を演出しています。
とはいうものの、この天守の建物は昭和61年(1986)竣工の復元で。現存天守ではありません。でも当時の面影を偲ばせるエモい天守ですよねぇ。最高。

天守から北を望みます。写真右側は由良川。北東から流れ下り、城の真下で南東から流れてくる土師川と合流して北西へ流路を変更して川の左側は侍屋敷地・町家地と続き、奥の河岸には寺が集まっていました。
同じく、天守から西方を眺めましょう。
右に旧侍屋敷地があった市役所で、その左にうっそうと樹木の茂る高台が見えますが、これは三の丸(伯耆丸)です。それらの手前は現在掘り下げられて住宅地になってしまっていますが、かつては石垣で固められた二の丸があり、その高さも伯耆丸と同等だったものと思われます。この他、伯耆丸の続きには広大な西の丸(西の丸)もありました。

御霊神社は祭神を宇賀神、副祭神を明智光秀とします。宇賀神は水の神で洪水除けのご利益を持ち、光秀は由良川の治水に

ちなみに、この御霊神社のすぐ後ろ(南側)はかつての福知山城外堀(惣堀)で、正保年間(1644~8)に作成された「丹波国福知山絵図」によれば3箇所の「在郷口」(城下と外部の郷村との出入り口)の真ん中の口と橋がありました。
これがちょっとだけ後の承応2年(1653)以前に作成された「福知山城下絵図」になると一番西の「在郷口」は無くなり、御霊神社裏の口は「木村口」と名を変えています。口外の木村の地に下級武士の屋敷などが並ぶようになり、固有名詞が付けられたのでしょう。
土地の取捨選択がおこなわれ、必要ないと思ったら余分な橋と道は潰してメンテナンス経費を節約する。出るを制する、これこそ江戸時代の武士の経営術なのです。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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