■規制の果て、湯女の消滅と吉原のはじまり

 江戸では、湯女を置くようになって以来、湯屋の人気は高まった。

 入浴だけでなく、湯女が目的で男がやってくるようになったのだ。

江戸初期の風俗を描いた『昔々物語』(享保17年頃)には、湯女について――

 

 昔は松平丹後守上屋敷前に町風呂夥(おびただ)しく、結局××美麗を尽し、風呂女とて遊女多くありしか、貴賤諸人入込……
*注:××は不明文字

 

とあり、湯女を求めて、武士も庶民も湯屋に押しかけていた。

 なお、松平は堀の間違いで、正しくは村上(新潟県村上市)藩の藩主堀丹後守直寄である。堀丹後守の上屋敷は、現在の千代田区神田小川町のあたりにあった。

 ということは、江戸市中の大名屋敷の門前に多数の銭湯があり、湯女を目当てに多くの男が詰めかけていたことになろう。

写真を拡大 図4『八十翁疇昔話』(新見正朝著、天保8年)、国会図書館蔵

 図4は、当時の湯屋と湯女が描かれている。

 ひと風呂浴びてさっぱりした男が、湯女と遊興しているところである。もちろん、このあと、床入りした。

 湯屋のある場所が大名屋敷の表門前と考えると、なんとも大胆で奔放な光景と言えよう。

 もし、幕府の役人が見れば、
「湯女ののさばりようは、目に余る」
 と、苦々しく感じたに違いない。

 これが後述するように、湯女の禁止につながった。

 元和四年(1618)、二代将軍秀忠のとき、江戸に幕府公認の遊廓、吉原(元吉原)が開設された。場所は、現在の中央区日本橋人形町のあたりである。

 いっぽう、それまで江戸の各地で営業していた女郎屋の遊女は私娼とされた。私娼は禁止され、取り締まりの対象となった。

 湯女も私娼とみなされ、禁止されたのである。

『異本洞房語園』(庄司勝富著)に、吉原の太夫勝山について――

 

 元は神田の丹後殿前紀国風呂市郎兵衛といふもの方に居りし風呂屋女なりしが、其頃、風呂屋女御停止にて……

 

 とある。

 堀丹後守の上屋敷前に紀国風呂という湯屋があった。勝山はそこの人気の湯女だったが、おりからの湯女禁止にともない、廃業した。

写真を拡大 図5『歴世女装考』(岩瀬百樹著、安政2年)、国会図書館蔵

 その後、勝山は開設されたばかりの吉原の遊女となるや、たちまち頭角を現わし、最高位の遊女である太夫(たゆう)となった。

 勝山がしていた髪形をみなが真似し、勝山髷(かつやままげ)と呼ばれるようになった。勝山の人気の高さがわかろう。

 図5は、勝山髷である。

 勝山を生んだ江戸の湯女は、セックスワーカーとして質が高かったと言えるのかもしれない。

『過眼録』に、明暦元年(1655)五月、町触(まちぶれ)が出て、

 

 風呂屋に湯女を抱え置くことは禁止
 武家屋敷にも町屋にも、湯女を呼ぶことは禁止

 

 になったとある。

 元和四年の吉原開設にともない湯女は禁止されたはずだが、消滅したわけではなかったのがわかる。

 それまでの派手さを自粛しただけで、その後もひそかに湯女の営業は続いていた。

 吉原(元吉原)は開設後およそ四十年で、現在の台東区千束四丁目に移転し、明暦三年(1657)から吉原(新吉原)として営業が始まった。

 この吉原移転にともない、湯女はきびしく取り締まられ、江戸の湯屋から湯女の姿は消えた。

 背景には、吉原の働きかけがあった。公許の遊廓である吉原は、湯女の存在は営業妨害であるとして、町奉行所に取り締まりを嘆願したのである。

 さらに、江戸の湯屋は蒸し風呂から、湯船の湯につかる形式に変わっていったことも、湯女の消滅につながった。