■高級なセックスワーカーだった!? 遊女と湯女の違い

 江戸時代初期の湯女について述べる前に、そもそも江戸の湯屋の実態を説明しておかねばなるまい。

江戸時代初期の見聞を記した『慶長見聞集』(三浦浄心著)に、「ゆなぶろ繁昌の事」として――

見しはむかし、江戸繁昌のはじめ天正十九卯年夏の比とかよ。伊勢与市といひしもの、銭瓶(ぜにかめ)橋の辺りにせんとう風呂を一つ立る。風呂銭は永楽一銭なり。

 とある。

 天正十九年(1591)は、豊臣秀吉の晩年である。

 秀吉より領地として関東をあたえられた徳川家康が、前年の天正十八年に江戸にはいったばかりだった。
 おそらく上方(かみがた)出身の伊勢与市という男が銭瓶橋(現在の千代田区丸の内一丁目あたりに架かっていた)の近くで銭湯を開業し、評判になった。

 当時の湯屋は蒸し風呂で、永楽は永楽通宝のこと。

 まだ上方にくらべると辺鄙(へんぴ)で質朴(しつぼく)な地だった江戸で、初めて蒸し風呂が営業を始め、人々が珍しがった状況がわかる。

写真を拡大 図3『加古川本艸綱目』(増谷自楽著、明和6年)、国会図書館蔵

 図3で、当時の蒸し風呂の様子がわかろう。

 裸の男が、
「から風呂は、垢のよう落ちるものじゃ」
 と、感激している。
「から風呂」は蒸し風呂のこと。要するに、サウナで汗を流し、全身の垢をこすり取るのが当時の入浴である。

 また、垢すりなどをする湯女の姿はない。
 徳川幕府開府以前の江戸の湯屋には、まだ湯女はいなかった。

 慶長八年(1603)、徳川家康が征夷大将軍となり、江戸の本格的な建設が始まった。
 建設ブームに沸く江戸に、仕事を求めて若い労働力が大量に流入してきた。そうした若い男たちにとって、性欲をどう処理するかは切実な問題だった。建設途上の都市だけに、男が圧倒的に多かった。

 そんな男たちの需要に応じるため、新興都市江戸のあちこちに簡便な女郎屋(売春施設)が林立した。
 新しい市場の可能性に目を付け、上方から遊女を引き連れて江戸に出てくる楼主(売春業者)も多かった。

 前出の『慶長見聞集』は、まさに「ゆなぶろ繁昌の事」として――

 今は町毎に風呂有。びた銭拾五文、廿銭づゝにて入也。湯女といひて、なまめける女ども廿人、三十人ならび居てあかをかき、髪をそゝぐ。扨又、其外によふしょくたぐひなく、こころざまゆふにやさしき女房ども、湯よ茶よと云ひて持来りたはむれ、うき世がたりをなす。

 と記し、江戸の湯屋がまたたく間に性風俗店になっていったのがわかる。
 湯銭は鐚銭(びたせん)で十五~二十文だった。鐚銭は、永楽通宝以外の銭のこと。

 風呂屋には湯女と呼ばれる、なまめかしい女が二十~三十人いて、垢すりをし、髪を梳(す)いてくれた。そのほか、容色たぐいなく、接客が優でやさしい女がいて、
「お湯を、お茶を」
 と言って接待し、セックスの相手もしてくれた、と。
 性行為の場所は、風呂屋の二階など、別室であろう。もちろん、湯銭とは別料金がかかった。

 当時、江戸の各地に林立していた女郎屋はせいぜい掘立小屋である。そんな場所で、遊女は汗臭い若い労働者を相手にしていた。
 いっぽう、湯女は、本格的な建物の湯屋で、客の相手をする。客の男は蒸し風呂のあと垢を落として清潔で、きちんと髪も結っていた。
湯女は当時、高級なセックスワーカーだったといえよう。
                             (続く)