|#03 『海の上に浮かぶ首』

 

 これは女友だち3人ととある海水浴場に遊びに来たM子さんの話です。

 車に水着や着替え、ビーチボールやフロートマットなどを積み込んでさっそうとやって来た彼女たちでしたが、「海が見た~い」というノリだけで来たので、泳ぎたいというわけではなく、海の家でかき氷を食べ、波打ち際でちょっと波とたわむれて、写真の2、3枚も撮れればそれでよかったのです。M子さんも最初はそのつもりでした。

 しかし、曲がりなりにも元水泳部員だったM子さんは、せっかく水着になったのだから久しぶりに水の感触を楽しみたいという気持ちになりました。それで、「ちょっと泳いでくる」と、水をかけあって遊んでいる連れに声をかけ、身を海水に投げました。

 クロールで2度、3度海面を切り、思いっきり体を伸ばすと、無重力の空間を飛んでいるような開放感に包まれました。波がふわふわと体を上下させるのも心地よいものでした。

 みんなに手を振ってやろう、そう思ってM子さんは足を下ろしましたが、海底に足がつきません。

「あれ?」

 驚いて岸のほうに顔を向けてみると、岸までは50メートル以上あるようでした。感覚ではせいぜい10メートル弱ほどしか泳いでいないつもりだったのですが、流れに乗ってしまったようです。

「ああ、やっぱり海は怖いな。注意しないと」

 元水泳部員だったM子さんにとって立ち泳ぎはなんでもないことでしたし、50メートルという距離も気にするほどのものではありませんでしたが、彼女は自分自身にそう言って気を引き締めました。その時のことです――

「危ないよ」

 不意に背後から声をかけられたM子さんは、ぞっとして手足の動きが止まり、沈みかけてしまいました。

 体勢を立て直して振り返ると、すぐうしろに赤と黄色のキャップをかぶった男の人の顔がありました。まっ黒に日焼けしているので年の頃がわからないのですが、30代にはなっていないようです。男はまた言いました。

「危ないよ。このあたりには離岸流があるんだ。うっかりしていると沖まで流されちゃうぞ」

 M子さんはその言葉を聞き、ああ、この人はライフセーバーなんだ、わたしが危ないところに泳いで行きそうになったので注意しに来てくれたんだ、と思いました。しかし、次の瞬間、恐ろしいことに気づきました。

 その男には、首から下の体がなかったのです。首だけが水面に浮かんでM子さんに話しかけていたのです。

「いやぁぁぁ」

 M子さんは声にならない叫びをあげて、岸に向かって泳ぎました。

 がむしゃらに手と足を動かして1秒でも早く岸に着こうと泳いだのですが、少しも前に進みません。それどころがどんどん下がっていくようです。

「どうして……? 離岸流につかまっちゃった?」

 M子さんは立ち泳ぎに切り替え、海流を見定めようと海の中を見ました。

 すると、海の中には透明なこけしのようなものが無数にいて、それが次々とM子さんの体に当たって沖に押しているのが目に入りました。こけし状のものはゼリーのように柔らかなので一つ一つの衝撃はほとんど感じられないのですが、何十何百と当たり続けるので、少しずつ彼女を沖へ運んでいくのです。

「これが離岸流の正体?」

 M子さんはこけしの流れをよけようと左のほうに泳ぎましたが、透明なこけしたちも彼女を追うように向きを変えるので状況は変わりません。M子さんはパニックになり、泳ぎながら叫び声をあげそうになりました。

「大丈夫ですか!」

 その時、モーター音とともに男の人の声が近づいてきました。M子さんはまた生首かと思い、体が硬直しそうになりました。でも、それは水上バイクに乗った本物のライフセーバーでした。

 

 水上バイクに乗せられて戻ってきたM子さんを、友だちは心配そうな顔で迎えました。

「どうしたの、M子? 泳ぎ得意なのに」

 中の1人がそう言ってM子さんの肩に手をかけました。

「離岸流につかまっちゃって……」

 M子さんはそう言って泣きそうな笑みを浮かべました。

「水は飲んでいないようなので大丈夫だと思いますが、救護所の2階で少し休んでいくといいですよ」

 助けてくれたライフセーバーがそう言うので、M子さんはそうさせてもらうことにしました。

 救護所といっても海の家の一画を間借りしているだけで、その2階の休息所も座敷の一部を区切っただけのものでした。それでもM子さんは横になって休めるのがありがたく、すぐに眠りに落ちました。

 どのくらい眠ったでしょう、M子さんは寝ている布団が動いているような感触で目が覚めました。地震かと思ったのです。

 でも、そうではありませんでした。畳の上に敷かれた布団が奥へ奥へと流されているのです。

 海の上でもないのになぜ布団が流されるのかまったくわかりません。しかし、M子さんが見つめている部屋の入口のドアが、どんどん遠ざかっていくので流されていることは疑いありません。

 寝ていた部屋は四畳半ほどだったのに、布団はあっという間に50メートル以上ドアから離れてしまいました。それでも流される速さは変わりません。

 この部屋はどうなっちゃったのだろう、わたしはどこへ流されていくのだろう、とM子さんは思うのですが、体がぴくりとも動かないので部屋の反対側がどうなっているのかまったくわかりません。それがM子さんの恐怖心をさらに強くしました。

 せめて叫ぶことができれば、下にいるライフセーバーたちに気づいてもらえるのに。M子さんはそう思いましたが、舌もこわばって動きません。

 その時です。M子さんの胸にどすんと落ちてきたものがありました。あの首だけのライフセーバーです。

 それは胸の上からM子さんの顔を見下ろして、こう言いました。

「危ないよ。ここから先はこの世の果てだ。堕ちたら二度と戻れないよ。ああ、怖い怖い」

 そう言いながらも少しも怖そうでも心配そうでもないのです。首はM子さんの様子にはお構いなしに〝忠告〟を言い続けました。

「ああ、間もなくだ。もうすぐ堕ちちゃうよ。ああ、怖い怖い怖い怖い」

「もうだめだ。間に合わない。堕ちる堕ちる。ああ、怖い怖い怖い怖い怖い怖い」

「堕ちちゃうよ、M子さん。終わりだね、M子さん。ああ、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い」

 なんでわたしの名前を知っているの? M子さんは恐怖にかられながらも強い憤りがこみ上げてくるのを感じました。どうしてわたしがこんなヤツにひどいめに遭わされなければいけないの?

 その怒りがM子さんの体を動かしました。布団から身を引き剥がすように上体を起こし――

 

「ああ、気がついた」

「M子、大丈夫?」

「苦しくない? 水飲んだ?」

 気がつくとM子さんは友だちに囲まれていました。背中から友だちの一人に抱きかかえられ、下半身が海水に浸っています。

「わたし、どうしたの……?」

「ひと泳ぎしてくる、と言ったとたんに倒れたんだよ」

 友だちの一人が少し笑いながら言いました。ちょっとムッとしましたが、悪い気はしませんでした。

「わたし、どのくらい意識失っていた?」

「え? ほんの2、3秒だよ。ねえ?」

 ほかの友だちもうなずいてみせました。

「M子、熱中症だよ。あんただけ帽子もかぶらずにはしゃいでいたんだもの。水泳部員だったから大丈夫とかわけわかんないこと言ってさ」

「そっか、きっとそうだね。じゃあ、もう上がろうか。みんなも熱中症なるかもよ」

「ええーっ。これからビーチバレーやろうとか言ってたのに」

「ダメダメ。わたしみたいになりたくないでしょう。さあさあ、海の家に戻ろう」

 M子さんは強引に一同を浜に連れていきました。今は少しでも早く海から遠ざかりたかったのです。

 沖のほうに赤黄のキャップをかぶった首がぽつんと浮いているのを見ないよう、友だちの間に身を隠してM子さんは海の家を目指しました。