■東海道は五十七次?

東海道五十三次之内 日本橋 曙旅立の図

 東海道とは言わずと知れた、江戸時代最大の主要街道です。江戸の日本橋を起点とした「五街道」の1つでした。江戸と京都を結ぶ街道で、徳川家康が整備を始め(1601年)、一応の完成は3代・家光の時(1624年)とされています。なぜ「一応」かと言うと、「五十三次(次=宿場のこと)」が出来たのがこの1624年だからです。

 東海道五十三次が通っている国は「武蔵国(東京都・日本橋)→相模国(神奈川県)→伊豆国・駿河国・遠江国(静岡県)→三河国・尾張国(愛知県)→伊勢国(三重県)→近江国(滋賀県)→山城国(京都府・三条大橋)」で、7都道府県を貫き、約492kmの距離です。

 しかしながら本当の東海道は「大阪の守口」までの五十七次あり、江戸幕府も「東海道は五十七次」としていました。勘定奉行が「東海道と申すは、熱田より上方は、伊勢路、近江路を通り伏見、淀、牧方、守口迄 ほか はこれ無き」と答えていることからもわかります。現代では一般的に、東海道=五十三次のイメージが強いのですが、江戸時代では違ったのです。

 現代の私たちがイメージする五十三次を表現する場合は「東海道“五十三”次」と、宿場の数を入れなければなりませんでした。歌川広重も絵にわざわざ「東海道“五十三”次」と銘打っていますよね。このことから、当時の庶民たちは「東海道と言えば五十七次」「東海道五十三次ならば、日本橋から京(三条大橋)まで」と認識していたことが伺えます。

 そして実際問題としては、やはりこの五十三次までがよく使われました。これは五十七次のうち、江戸-京都間の旅人や参勤行列の利用が最も多かったこと、広重の有名な絵「東海道五十三次」などが影響しているからです。

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