■タブーの軍国主義批判

 当時から藤田は、堂々と軍国主義批判をぶつような硬骨漢であり、いつも学校側を恐れさせた。藤田が旧制松江高校に入学した翌1945(昭和20)年3月ごろ、寮の3年生が召集令状で戦地に赴くことになった。さっそく、寮で形ばかりの壮行会が行なわれた。それぞれが型どおりのあいさつをするのに業を煮やした藤田は、こんな怒りをぶちまけた。

 「みんな、当たりさわりのない話しをしてこの場を取り繕っているが、お前たちは赤紙1枚で戦争に駆りだされ、むざむざ死地に赴く先輩の心情を本気で思いやっているのか。戦争に駆り出されて死ぬことが、どんなに無意味なことか、本当にわかっているのか。先輩の気持ちを思えば、そんな型通りのあいさつでお茶を濁すことはできないはずだ。もっと真心のこもった話ができないのか……」

 藤田の怒気に圧倒されて、座はシーンと静まり返った。一方、次の日に戦地に赴く3年生は、「よくぞいってくれた」と、藤田に泣いて感謝したのである。今なら何でもないことだが、あの時代に軍国主義批判をぶつのは、一歩まちがえれば憲兵隊に連行され、拷問される危険性があった。そんなことは百も承知の上で、藤田は、自分の正しいと思うことを堂々と発言した。それは、並大抵の勇気ではなかった。藤田の大きな特徴は、物事の本質を見抜く地頭の良さ、それと事に臨んでの度胸のよさにあった。

 藤田は、旧制北野中学校時代の松本善明のように軍国少年にはならなかった。それは外資系の会社につとめ、海外の動向に明るかった父・良輔から折りあるごとに、「日本が勝ち目のない無謀な戦争に突入した」と聞かされていたからだ。そして、その最大の理由は、「日本が単一国家、単一民族で視野が狭く、海外の動向についてあまりに無知であるからだ」と教えられていた。

 すでに、日本の敗色は濃厚であった。このまま戦争が続けば、次は藤田たちが戦地に駆りだされる番だった。藤田はやりきれなかった。

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