歴史上の人物に迫るには様々なアプローチがあるが、ここでは四柱推命(しちゅうすいめい)という手法を用いて、歴史上の人物がどんな性格であり、なぜ成功したのか(失敗したのか)を読み解く。※四柱推命と用語の説明はページの最後をご覧ください。

 これまで、徳川家康と長男・松平信康、次男・結城秀康、三男・徳川秀忠を四柱推命鑑定してきた。今回は、家康の子ども事情に焦点を当てる。長男・信康は家康から切腹を言い渡され自害、次男・結城秀康は豊臣家の人質、その後結城家の養子となり、結局三男・秀忠が将軍職を継いだ。なぜ家康は三男・秀忠を二代将軍に指名したのか?その秘密に迫っていく。まずは4人の相性鑑定結果を下記に示す。

※4人それぞれの鑑定結果はBACK NUMBERご覧ください。

 
 

〇基本相性

 まずは相性を見るときの基本となる、パーセンテージを見ていく。0~100%で表され、一般に70%以上が相性がよいと判断され、50%程度がまあまあとなる。
 基本相性を鑑定した結果、徳川家康と秀忠の相性が最もよく90%、秀康とは65%で中の上、信康とは15%で相性が悪いという結果になった。家康と秀忠はツーカーの関係、お互いわかり合え、一緒にいて心地よい存在だったといえる。一方、信康は家康にとって何を考えているのかわからず気が合わない存在だったのだろう。

 

〇家康と秀忠は宿命大半会!

 家康の日柱の干支は「壬寅」、秀忠の日柱の干支は「壬午」であるが、このように同じ十干(壬)を持ち、十二支の関係が「寅」と「午」のように三合会局である場合、2人は宿命大半会(しゅくめいだいはんかい)の関係にあるといえる。30人に1人しかいない貴重な存在だ。宿命大半会のイメージは、広がる、飛躍する。つまり、2人が一緒に組んで仕事をすると、スケールの大きな仕事や実績を残すことができる。家康と秀忠はまさにそんな関係だったのだろう。
 関ヶ原の合戦の後、家康が「次の将軍には誰がいいだろう?」とたずねた際、徳川四天王のひとり本多忠勝(ほんだただかつ)や側近の本多正信(ほんだまさのぶ)・正純(まさずみ)親子は、秀康を推し、大久保忠隣(ただちか)のみ、秀忠を推薦したという。秀忠は、関ヶ原の合戦に合わないという大失態。一方の秀康は、関東の留守を守る総大将として宇都宮城に入り、会津の上杉景勝を包囲し、南下を阻止した。そんな状況の中でも、次期将軍に秀忠を選んだことには、「一緒に組むと大きなことができるのでは?」という期待感もあったとも考えられる。

 次に、命式表の通変星(つうへんせい)・蔵干通変星(ぞうかんつうへんせい)を用いて性格を見ていく。4人の性格を簡単に円グラフに表すと下記のようになる