■王家の直轄領である"屯倉"は王家の力を高めることに

写真を拡大 上宮王家『日本歴史図会. 第1輯』古谷知新 編(国民図書刊)

 謎めく聖徳太子の死。 どうしても解けないのであれば、われわれは何か大きな勘違いをしていたからではないだろうか、推理の前提が、根本からまちがっている可能性を疑ってみたのである。   

 そこで『日本書紀』の示した七世紀半ばの政治状況を、簡潔に再現してみよう。 

 豪族同士の勢力争いを収拾し、中央集権国家を上げようと目論んだのが、聖徳太子であった。ところが、既得権益にしがみつく蘇我氏らの圧迫によって、聖徳太子は斑鳩の地に隠棲してしまった。その後、蘇我氏は専横をくり広げ、また聖徳太子の子の山背大兄王の一族を滅亡に追い込んだのだった。そこで中大兄皇子や中臣鎌足は、蘇我入鹿を暗殺し(乙巳の変)、主導権を握ると、聖徳太子がめざした律令制度を導入すべく、大化改新を断行したのである 

 このように、中央集権国家の建築を目論んだ聖徳太子。それを邪魔した蘇我氏、さらに蘇我氏を潰し、太子の遺業を継承した中大兄皇子や中臣鎌足、という図式を『日本書紀』が描いていたことが分かる。そして通説も、かつてはこの流れは、ほぼ事実としとして受け入れてきた。乙巳の変と大化改新は、中大兄皇子と中臣鎌足の高邁な理想を実現するために行され、制度の基礎が整ったというのである。もちろんこれは、『日本書紀』の主張をほぼなぞっている。 

 

 ところが近年、このような見方に少しずつ変化が現れてきた。蘇我氏が改革事業の弊害になってきたという常識が疑われ始めているからである。 

 たとえば、律令制度の前段階の屯倉は、蘇我氏が旗振り役になっていた。屯倉とは王家の直轄領で、王家の力を相対的に高めることによって、中央集権国家の基礎固めを目指した。つまり、蘇我氏は「強い王家」を支持していたのである。  

 また癖我氏は、王家の外になることによって権力基盤を強化したのだから。蘇我氏が国家を乗っ取ろうとしていたことも疑わしい、という指摘も提出されるようになってきた。   

 それだけではない。乙巳の変ののち即位したの孝徳天皇たが、この人物が「蘇我寄り」だった可能性がある。 孝徳天皇の姉の皇極天皇は、蘇我氏全盛期に確立された女帯であり、蘇我寄りであったとえられる。事実、乙巳の変の蘇我入鹿暗殺現場では狼狽し、そのあり様から入鹿と女帝は男女の仲にあったのではないかと疑われているほどだった。

(次回につづく)

〈『聖徳太子は誰に殺された?』〉より