■藤原氏と密接な関係にある法隆寺への食封

写真を拡大 平等寺 聖徳太子石像

「中門」の謎というのは何か。

 法隆寺の中門には真ん中に柱がある。 門というものは人が出入りする以上、わざわざ柱を真ん中にする必要性がどこにあったのか、大きな謎だというのだ。
  梅原氏は、独自の法隆寺七不思議を提示したうえで、これらの法隆寺にまつわる多くの謎を解明するために「法隆寺資材帳』に注目している。この文献に記されている、朝廷から法隆寺に与えられた食封(古代の俸禄制度)の時期を調べてみると、 藤原(中臣)氏のお家事情と奇妙な符合をみせているというのだ。

 

 どういうことか説明しよう。

 皇極2年(643)の山背大兄王殺害の直後に始まった法隆寺への食封は、天武8年(679)にいったん中止されるが、養老6年(722)、元正天皇のときに再開されている。この年は、藤原氏や藤原氏の力によって政権を維持していた天皇家にとって、試練の年だった。なぜなら、養老4年(720)8月に藤原氏の首領・不比等が死に、その翌年には藤原氏の息がかかった元明女帝が亡くなっているからだ。 
 そして、この食封は朝廷の混乱がおさまった神亀4年(727)にふたたび中止され、 天平10年(738)4月に、聖武天皇によって再開されている。この年は、藤原一族の屋台骨を支えていた不比等の四人の子が伝染病であいついで急死した事件の次の年にあたる。  
 このことはすなわち、法隆寺と藤原氏が密接な関係にあったことを雄弁に物語っている。そしてそれこそが、上宮王家滅亡を画策した名参謀・中臣鎌足と太子との関係を暴露するものだ、と梅原氏は指摘している。
「鎌足の蘇我氏滅亡のやり方は、いつも蘇我氏の一族を分裂させ、反主流派、不平分子を抱きこんで事件を成功させるというやり方である。入鹿を倒し、倉山田石川麻呂を倒したやり方が、それである。
 こう考えると、山背の殺害も、そういう蘇我氏の内部分裂政策の一端ではないかという推論が、われわれに可能となる。じっさい、『日本書紀』ではこの二つの事件は悪人による善人の殺害、そして善人による悪人への復讐という形で結びついているが、 結果論から見ると、この事件は蘇我氏の内部分裂による崩壊の歴史という形で見られる。いったいこれは、はたして単なる結果論にすぎないのか、それともこういうことをすべて見通していた、すぐれた作戦の名人がそこに介在したのであろうか。(中略) 
 この事件における入鹿の消極的態度を見るとき、私にはこの事件の主役は入鹿ではなく、一人の別の陰謀者であったように思われる。 

 皇極3年の中臣鎌足の神祇伯抜擢は、こういう陰謀者にたいする論功行賞ではなかろうか」(『隠された十字架』より) 
 すなわち、中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我氏と蘇我系の皇族を陥れるために、彼らに内部分裂を起こさせ、殺し合わせたということである。 
 以上のような梅原氏の指摘から推察すると、次のような答えが出てくる。

(次回につづく)

〈『聖徳太子は誰に殺された?』〉より