■御霊合戦のときと立場が逆になった西軍

細川勝元『本朝百将伝』大西与左衛門著より 国立国会図書館蔵

 当日は晴れ後くもり、昼一時雨という天候である。早朝卯の刻(午前6時頃)、まず勝元方が兵を発した。先鋒をうけたまわった若狭・丹後守護、安芸分郡守護の武田信賢が兵3000を率いて実相院に向かったのだ。同じくその東の正実坊には、大和興福寺の衆徒・筒井氏の一族、成心院光宣が攻め入る。

 ふたつの拠点を占拠した勝元派は、そのまま幕府御所西の一色義直屋敷を襲う。対する宗全派は、20日の会合で義政が派遣した女房(侍女)から軽挙を戒められており、何ら手を打つことができなかった。ちょうど御霊合戦のときと立場が逆になったのである。直前に屋敷を脱出し難を逃れた義直は宗全屋敷に避難。あっという間に幕府御所の西面は勝元方の制圧下に入った。

 これに対し、宗全方も急ぎ実相院と正実院を奪還すべく兵を向かわせたが、待ち構えた勝元方に撃退される。攻めあぐむ宗全方は、まず勝元屋敷を占拠して南からの脅威を取り除こうと、斯波義廉の軍勢1万あまりが一条大宮に進出。屋敷を守ろうとする勝久ら勝元方と激しい合戦がくりひろげられる。勝元方は京極持清1万あまりも東から援軍駆け付けたが宗全方に押され東に潰乱し、一条戻り橋周辺で無数の兵が堀川に落ちて川が平地のように埋まってしまったという(『応』)。

 その後、勝元方の赤松政則勢も南から迂回して戦線に参加。すでに消耗していた義廉勢は退却した。戦闘が小康状態になった隙を見た勝久は屋敷を自焼して逃れる。京は両軍の鬨の声と焼き討ちの煙に満ちた。

 ちなみに『大乗院日記目録』ではすでに前日の25日の段階で「東方」「西方」と両軍を呼び分けている。幕府御所の北の細川屋敷と相国寺を本陣とした勝元派が「東軍」、西の山名屋敷を本陣とした宗全派が「西軍」である。

 5月28日、義政は両軍に戦闘を禁じる。だが、すでに前日まで2日間の激戦で疲弊しきった両軍は言われるまでもなく休止しており、何の意味も無い。そのうえ6月3日、義政は勝元に牙旗(将軍の命令による軍勢であることを示す旗)を与えてしまった。いくら幕府御所を固められているとはいえ、その行き当たりばったりぶりは弁護の余地が無い。こうして東軍は大義名分を得たが、「将軍の敵」となった西軍も、そのまま収まるはずもない。戦火は京だけでなく、各地の国々にも飛び火し、拡がっていくのである

(次回に続く)