■めぐりめぐる

前回:明智光秀の足跡を訪ねて④西教寺さんでお墓参り(その1)】 

 西教寺さんの墓域は、山肌に沿って上まで続いています。ちょっと昇ってみましょう。

 

 徳川家康の家臣で長崎奉行・堺奉行をつとめた長谷川藤広の墓です。
『徳川実紀』に「異域の事は左兵衛藤広」と書かれているように、外国関係のエキスパートだった藤広。その墓がなぜ西教寺にあるのでしょうか。彼は伊勢出身で、幕臣となって事務官僚として辣腕をふるったものの領地を与えられることはなく(つまり俸禄=サラリーで働く「蔵米取り」という身分だったということです)、坂本にどういう縁があったのか、戸惑いますよね。
 実は、彼が長崎に赴任しているとき、同行させた片岡庄兵衛という人物に中国人のソロバンを学ばせ、庄兵衛はそれを地元・大津の追分に戻ってから改良して広めたということで、関係者が藤広の恩を忘れず「和式ソロバンの祖」として近くに墓を建て、香華を供えたということのようです。道理で、境内にはソロバンを抱えた可愛いお地蔵さんもありました。

 
 

 こちらは長岡監物一族墓。監物は肥後隈本藩細川家の家老で、幕末期の人物ということで本ブログのテーマから外れるので詳細は省きますが、本名は米田是季。米田家初代は将軍・足利義輝に仕えたあとその弟・義昭を三好党の監視下から救出し、さらにのち細川藤孝の家老となった求政です。求政は光秀が永禄8、9年(1565~6)以前に近江国高島郡田中城に籠城していた証拠となる「米田文書」を記した当人で、田中城はこの西教寺からも近く、なんとも不思議な縁を痛感せざるを得ません。

 

 比良太郎兵衛墓。主君の出雲国松平出羽守は直政。茶道で有名な松平不昧(治郷)を出す松江松平家の初代です。太郎兵衛はその家臣という事ですが、比良氏はこの一帯の大姓で、高島の高島氏、朽木谷の朽木氏、田中城の田中氏などみなこの血族です。比良氏は光秀と血縁関係ありとする史料もあり、その関係で西教寺に葬られたものでしょうか。
 近くの北比良町に残る比良城跡にも、比良太郎兵衛の墓があります。